コミュニティとしてのゲストハウス

私は5年前から2年間ほど、東京のゲストハウスに住んでいた*1。東南アジアでゲストハウスといえば安宿のことだが、日本の場合は共有スペースのあるアパートのことである。私の住んでいたハウスには、30ほどの部屋があった。ハウスの中央には合わせて30畳くらいのリビングルームとキッチンがあり、住人の共用であった。コインシャワーとトイレもあって、これも共用。

ゲストハウスのいいところは、入居に際して審査もなく、礼金・仲介手数料がないこと。敷金は取られるが、大きな金額ではない。これは退去時によほどの問題がなければ全額返ってくる。ゲストハウスの部屋は大きくわけて一人一部屋の個室と、ドミトリーと呼ばれる大部屋の2種類があるのだが、私は大部屋に合計6人で住んでいた。10畳間くらいの部屋に3組の2段ベッドが置かれていた。家賃は月35000円だった。

まさにベッドの1畳の空間に寝起きする日々。そんなところによく2年も住んでいたね、と人々に驚かれるのだが、実はとても楽しかった。これは運もあるのだが、同じ部屋のメンバーたちがみなユニークかつ気持ちのいい連中で楽しく過ごすことができた。

夜、仕事が終わって帰ってくると、みなリビングルームに集まってテレビを見ている。私が料理を作っていると、他の住人が「これ、余ったんだけど食べない?」とかお裾分けしてくれる。そうして、そこに居合わせた人たちといろいろ冗談をいいながら夕食を食べるのだ。

ここで私はいろんな人たちに会った。カジノのディーラーを目指して勉強している男。仕事の愚痴をこぼすキャバクラ嬢。出会い系サイトのサクラで女の子を演じていた優しい男の子。外国人もいた。会社員の男女も多かった。仕事をやめてブラブラしている人もいたが、みなそういう人にも優しかった。普段は楽しく話をするけれども、それぞれ自分の世界も持っている。そんな付かず離れずの関係が心地よかった。

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で私は、日本の会社は心の憩いを与える家族的な役割から降りて、会社の外に家族的組織を作るべきだ、と述べた。私にとって当時住んでいたゲストハウスはまさにくつろげる家族的組織=コミュニティだった。あのハウスに住んでいなかったら、私は東京の孤独に耐えられなかっただろう。

ゲストハウスによって雰囲気はかなり違うのだが、私のいたところのように、適度に仲がよく、しかし、互いの生活には干渉しないというのはありがたかった。猫たちのように、遊びたいときには遊び、そうじゃないときには引きこもっていても別に何も言われなかったからだ。

日本企業の家族的性格を象徴するものが社員寮(社宅)という制度だろう。私は初めて勤めた会社で社員寮に入ったが、残酷な制度だなとつくづく思った。なにせ会社を辞めたらすぐ出て行かなければならないのだが、日本では仕事がないとアパートが借りられないのである。辞めるに辞められないではないか。

ゲストハウスは、こういう息苦しい日本的世界の外側にある。ネットカフェ難民というのが問題になったらしいが、彼らがなぜゲストハウスに行かないのか不思議である。ネットカフェに寝泊まりするカネがあれば、十分借りられるのに。(他の人たちと住むのが苦手なのかな)

「日本一のニート」を目指すという pha さんは、ギークハウスというのをやっているらしい。ウェブ系クリエーターのためのゲストハウスと考えていいだろう。pha さんは「私はなるべく働きたくないと思っています」などと平然と公言しているのだが、「仕事様真理教」を信奉するこの社畜カルト国家で、勇気ある発言だなーと思う。みんな内心そう思っていてもあそこまで堂々と口にできないはずだから。彼がどれくらい意識的にやっているのかわからないけど、「会社以外にコミュニティを作る」という日本でいま一番必要なことを着々と実行してくれている気がする。

ゲストハウスは、基本的に単身者むけなのだけど、家族むけにはコーポラティブハウスというのもある。私は、日本を変えていくには迂遠でもこういうところから始めて行くしかないような気がする。

*1:私が住んでいたのは当時業界最大手だったオークハウス 。他にも「ゲストハウス」で検索すればいくらでも出てくる