日本の組織はなぜ人を切れないのか

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アメリカの組織から日本の社畜問題について考える - Rails で行こう!

現代日本の最大の社会問題は、滅私奉公・転職困難という「社畜」問題かもしれない、と述べた。中小企業には比較的人材の流動性はあるが、日本経済を支配する大企業の人事政策はきわめて硬直的である。大企業の正社員になる方法は、原則として、新卒時に入社することだけである。たとえ中途採用で入ることができても「生え抜き組ではない」という色眼鏡で見られ、出世は期待できない。転職しようとしても、中途採用のよい職が極端に少なく、収入の減少を覚悟しなければならない。結果として、会社にしがみつくしか方法がなく、会社がいかに理不尽な異動や転勤を命じても唯々諾々従うしかない。サービス残業を強いられても、他に選択肢がなければ受け入れざるを得ない。

日本企業は、このように従業員の人生全体を抱え込んでいるので簡単に解雇することはできない。たとえば製造業の企業が A 県の工場を閉鎖して、B 県の工場へ集約するとき、当たり前のように、A 県の従業員を全員連れて行く。いかに A 県と B 県が遠く離れていたとしても、である。これがアメリカなら、一部の熟練労働者を除いて、A 州の従業員は全員レイオフし、B 州で新しく従業員を募集しただろう。そもそも A 県から従業員を全員連れて行けば、人件費の削減ができないではないか。(実際には、こういう場合、企業は A 県の従業員の一定数が辞めてくれるのを期待しているらしい。日本的な陰湿なやり方である)

もしここで、従業員が A県で解雇されていれば、B県で新しい求人が生まれたはずなのだ。解雇が多い社会は、新規雇用も多い社会である。一定数の椅子があって、同じ顔ぶれが同じ椅子にしがみついているか、あるいは、人々が絶えず立ったり座ったりして移動しているか、の違いである。後者のいいところは、選択の余地があるということだ。雇用主に対して「そんな無茶な命令を続けていると、他の会社に行ってしまいますよ」という脅しが使えるのだ。日本の場合、労働者は事実上こういう選択肢が与えられていない。

なぜ日本では人々は同じ会社にとどまらざるを得ないのか。

会社に限らず、日本の組織は一般的に「入るのが難しく、中にいるかぎり安泰」なものが多い。例えば大学がいい例だ。日本の大学の入学試験は難しい。しかし、いちど入学してしまえば、いくら勉強を怠けても、退学はおろか落第することさえ少ない。一定の年数をつつがなく過ごせば卒業させてくれる。入学は簡単でも、進級・卒業が難しいアメリカとは対照的である。

日本の就職活動が馬鹿馬鹿しいのは、選考過程で乱痴気騒ぎを繰り広げた果てに、企業はもったいぶって学生を採用するが、彼らが正しい選択をしたのか、実際には誰にもわからないということだ。それよりずっといいのは、簡単な審査で多めの学生を試用的な契約で採用し、1年くらい実際に働かせてみて、適性のある人物だけ残す、という方法だ。物事は実際やってみなければわからないのだから。

日本の組織は、組織の目的に貢献しない人たちを、組織の外に追放することに恐ろしく無能力であるように見える。そして、それが大学では学生の学力低下や企業の業績悪化につながっているように思える。どうして日本の組織は人を切ることができないのか。

家族的組織としての日本企業

組織には、おそらく二種類のものがある。存続そのものが目的の組織と何らかの目的の達成のために存在する組織である。前者の代表は家族である。家族というのは、自然発生的な組織であり、利害を度外視して互いに助け合うのが当然とされている。後者の代表は株式会社である。株式会社の起源は、遠方との交易の利益とリスクを投資家の間で分かち合うことにあったと言われている。
前者を「家族的組織」、後者を「機能的組織」と呼ぶことにしよう。

日本企業が、不必要な従業員を解雇できないことについての驚くべき無能さをみるに、おそらく日本企業は株式会社であるにも関わらず、家族的組織として日本人にとらえられているのではないか。もちろん、機能的組織としての性格はあるが、それは副次的な属性であるように見える。株式会社だけではない。大学もそうである。日本人は、純粋に機能的な組織を作ることが非常に苦手であるように見える。

日本人が組織に入るとき、それは直ちに「仲間」になることを意味するのである。組織は家族であり、自分の利害を度外視して助け合うのが当然なのだ。従業員はサービス残業や休日出勤で会社に仕え、会社は従業員の雇用を何としてでも守る。日本の組織は、仕事をこなすためだけの冷たい機械ではなく、心温まる団らんの場を提供する家なのである。

しかし、残念ながら、大組織が家族である、というのは幻想である、と思う。10人程度の人たちが家族的に協力し合う、ということはできるだろう。しかし数百・数千・数万という人たちが「心を一つに合わせて働く」というのは相当無理がある。私たちは、それぞれ異なった背景を持った人間であり、別々の嗜好や思想をもっている。「心を一つに合わせる」のが前提であり、そうしなければ機能しない組織というのは、構成員にとってそうとう息苦しいのではないか。

家族の構成員は、利害を度外視して協力し合う。「損だから協力しない」と言えない場なので、うまくいっているうちはいいのだが、いったんうまく行かなくなるとあらゆる理不尽と暴力の温床になる危険も秘めている。実際、日本ではほとんどの殺人は家族の間で起こっている。家庭内暴力に苦しんでいる人たちは多い。日本の会社で過労死する人たちは、おそらく「つらいからこの仕事はできません」と上司に言えなかった人たちなのだ。どうしてか?会社は家族だからだ。家族の構成員は利害を度外視して助け合うのが当然だからだ。

会社からしても同じことだ。経営者も利害を度外視して、従業員を雇い続けなければならない。どんどん変化が激しくなっている世界の中で、従業員を解雇できないために、直接的な事業の再編が難しい。やれ配置転換だ、子会社への出向だと、複雑な操作を経なければ、ちょっとした組織の変更もできない。当然、実行速度は遅い。企業同士の合併も難しい。それぞれの企業の従業員の組織に対する思い入れが強すぎて、調整が難しいからだ。

日本には高度経済成長の黄金時代があった。かつて、こうした家族的な会社組織は、アメリカの機能的な会社組織よりうまくいっているように見えた。利害を度外視した協力というのは、好循環に乗っているときには強いのである。だがいまや循環は逆転し、すべてがうまく行かなくなっているように見える。

これは非常に難しいし、日本人にできるのかどうか、私にも確信が持てないのだが、やはり日本は機能的な組織を必要としているのかもしれない。家族の一員にならなくても活躍できる組織。忠誠心を強要されない組織。目的が明確で、そのためには構成員の新規採用や追放を恐れない組織。アメリカと全く同じにする必要はないし、そもそも不可能だと思う。私たちは日本的な機能的組織を発明する必要がある。

そしてこの日本的な機能的組織を効果的に働かせるためには、同時に、人々に「職場の外で」心の憩いを与えるような家族的組織が必要だ。コミュニティと言ってもいいだろう。いま日本人が解雇を恐れる理由の一つは、職場が精神的安定を与えるコミュニティと化しており、職を失うとそうした精神的な支えも失ってしまうからだ。

日本的なやり方で、会社から家族的な機能を引き剥がし、同時に職場の外にコミュニティを作ること。日本的な機能的組織と家族的組織の2つの発明がいま日本人に求められているではないだろうか。