日本がアジアで最初に近代化に成功した理由

アジアで暮らしていると、「日本人って頭いいよね」と言われることがときどきある。アジアで最初に近代化に成功し、欧米諸国に混じって、先進国の仲間入りしたことへの賛辞である。でも、私は「日本人って本当に頭いいのかな?」とこの手の話には違和感を覚える。

私が思うに、経済成長を考えるうえで、日本と他のアジア諸国(韓国・中国・ベトナム)を分かつ最も重要な要素は「大きな組織が作れるか」どうかじゃないかと。日本は、とにかく大企業が多い。中小企業と呼ばれる企業でも、普通、数百人の従業員がいたりする。これって、日本人が思うほど、世界ではあたりまえのことじゃないんだよね。

日本人は、団結して何かをやるのが得意なのだ。いわゆる集団主義というやつだ。日本では、人々が集団に属すると、内には甘く、外には厳しくすることで、結束力を高める。日本語の敬語体系では、話し手と聞き手が所属集団の内外にいるかを基準にして、尊敬語と謙譲語を使い分ける。(例:顧客に対して「社長の酒井は現在席を外しております」と秘書が答える)日本語のこうした性質が、日本人の集団の団結力を強化する。(日本語が先か、日本人の気質が先なのかよくわからないが)

他のアジアの国々では、集団のモデルになるのは、家族である。韓国人・中国人・ベトナム人にとっては、6等親くらいまでの遠い親戚までが一種の拡大家族であり、日本人には想像できないほどそれに固執する。それは、逆に言うと、社会においてそれ以外に集団を作る方法が存在しなかったからだろう。家族というのが、人々を社会の中で組織する唯一の方法だったのだ。(ベトナムでは、そうした色彩がいまだに濃い。だから、ここには民間の大企業はほとんどない)

日本だけが、血のつながらない集団に強い結束力を持たせることができた。それが、資本主義社会における会社というモデルにぴったり符合した。そこで、人々は会社に対して忠誠心をもって生き生きと働くことができた。その結果、高度経済成長があり、先進国の仲間入りを果たすことができた・・・ということだろう。

しかし、それには代償もあったと思う。日本では、集団が常に個人に優先されるため、個人の独創的な発想が生かされにくい。絶えず周囲の人たちの意向を伺いながら、自分の言動を調整する(いわゆる「空気を読む」)必要があるため、ときどき息の詰まる思いをするときもあるだろう。一番の問題は、社会のエリート層の内部で、意見の衝突を避けあっているうちに一種の馴れ合いになってしまい、改革が必要なときに、原理原則に従った痛みの伴う変革ができないという点である。これが、戦前、日本の軍部が暴走して、第二次世界大戦の敗北という悲痛な結果に終わったことや、現在、必要な政治経済的な改革が沈滞し、近い将来の「経済的敗戦」へひた走っていることへつながってくる。

個人的には、私は、子供のころから、この「日本的集団」というのが大の苦手であった。私がベトナムで居心地のよさを感じているのは、ベトナム人は、日本人と同じような繊細さがあるにもかかわらず、ひたすら空気を読みあう息苦しい「日本的集団」とは無縁の社会だからだろう。

ただ、個人的な好みを離れれば、日本的集団も一定の利点を有していると思う。それが持つ固有の欠点に対して意識的になり、それを乗り越えることができれば、日本に新しい希望が見えてくるのではないか。