Twitter で投げ銭ができれば、世界が変わるかもしれない

気持ちはわかります。気持ちは、ね。

日本のためにならない「FREE」礼賛論を疑え! | 岸博幸のクリエイティブ国富論 | ダイヤモンド・オンライン

人類の歴史で、純粋な情報そのものが売買されたためしがあったのかな?私たちはいままで、実のところ、一定のパタンでインクの染み付いた紙の束(書籍)や溝のいっぱいついたビニールの円盤(レコード)を買ってきただけじゃないのかな?もし、情報がそこから離れて自由に動き出したとき、果たして、その変幻自在な、つかみどころのない「情報」とやらを売ることは本当にできるのだろうか?

でも、昔の人たちは、そんなことを心配する必要はなかった。情報とそれを運ぶ物理的媒体は、完全に一体化していて、実際には、どちらを売っているのかなんて気にする必要がなかったからだ。

しかし、デジタル機器の登場がそんな平和な時代を終わらせてしまった。デジタル機器は、情報を物理的媒体から独立した形で、自由に流通させることを可能にした。情報という学問上の概念は、突如して、電子的メモリーの上のビットパタンという形で「実体化」したのだ。

情報と物理的媒体の幸せな結婚の最後の牙城であった書籍にも、いまや電子化の波が押し寄せてきている。書籍がデジタル化されてしまえば、たどる運命は、音楽や映画など、一歩先に電子化された種類の情報と同じだろう。支払いのないコピーの氾濫、正規料金の急速な下落、利便性を提供する大規模販売プラットフォーム(iTunes のようなもの)の勝利と、中小の仲介業者の淘汰。

池田信夫氏の言うとおり、複製の限界費用がゼロである以上、いずれ「情報」の価格がゼロになるのは避けられない。iTunes で売ってるじゃないか、というかもしれないが、あれは、大量の選択肢の中から保証されて品質の情報が簡単に手に入る、という利便性に対してカネを払っているのであって、情報それ自体に払っているわけじゃないのだ。実際、品質を気にしなければ、いまやたいていの音楽は Youtube で無料で聴ける。

以前、こんなエントリを書いた。

寄付ベース社会への移行 - Rails で行こう!

文章でも音楽でも映像でもいい。ある優れた創作者が作品をデジタル情報の形でインターネット上で公開する。それは売るのではなく、公共財として誰でも鑑賞可能な形にする。その作品に感動した人々が、創作者のまわりに集まってくる。そして、かれら支援者が創作者を経済的に支援するのだ。昔、権力者や資産家たちが芸術家の保護者となったように、支援者が直接、創作者を支援するのだ。

何をお花畑みたいなことを言っているんだ、と思うかもしれない。しかし、人間というのは、自分が大切におもう人たちの成長を支援したい、という欲望を確実に持っている(たとえば親が子供を想う気持ちがそうだ)。そして、これは次元の高い欲望であり、満たされたときには、人格を変化させるくらい、深い満足感を与えるものだ。寄付というのは、人間のこうした気高い欲望を満たすよい方法である。

ただし、条件がある。寄贈者がいちばん懸念することは「この寄付金が果たして、目的の通り使われるか」ということだ。そのため、寄付金の使途は徹底的にガラス張りにしなければならない。支援を受ける創作者は、自分が受け取ったカネについて、完全な説明責任を果たす必要がある。商品を販売した場合とは異なる厄介な点である。

最近、Twitter にはまっている。ふと思ったのだが、あるユーザーに対するフォロワーというのは上で述べた支援者に近いのではないか。フォロワーの群れは、デジタル部族(tribe)であり、フォローされる人はその酋長なのだ。面白いのは、Twitter には、無数のデジタル部族があり、それが相互に重なり合っていること。全員が自分が酋長を務める部族では主人公になれるのだ。

フォロー対象の人物の言動は、そのつぶやきの中に如実に現れるし、質問をすれば答えが返ってくるし、上の寄付に必要な説明責任を果たしやすい仕組みになっている。もし Twitter でフォロワーからフォロー対象の人物に、簡単に投げ銭を送れるシステムが登場すれば、本当に Twitter だけで飯が食う人たちが現れてくるかもしれない。

モノのやり取りと違って、情報のやり取りに「売買」という概念はなじまない。もし、他のユーザーへ寄付が簡単にできるようになれば、Twitter は贈与経済のプラットフォームとなり、人類の知的生産を加速するエンジンになっていくかもしれない。

P.S.

というわけで、私も Twitter でつぶやいていますので、よかったらフォローしてみてください。