「日本というシステム」は持続可能なのか?

自分の人生を振り返ると、実に馬鹿だったな、と苦笑せざるを得ない。私は1994年に東大経済学部を卒業して、ある都市銀行に入行し、都心の支店に配属された。私が理論肌の人間だということは銀行も知っていただろうから、おそらく、数年現場仕事をさせた後、本店に呼び戻して調査研究畑を歩ませるつもりだったのだろう。たぶん、当時の学生たちがうらやむようなエリートコースに乗っていたはずだ。

東大を卒業することの最大の利点は、日本で最良の大企業に入る権利を手に入れられることだ。その「東大カード」を切って、私は日本を代表する大企業の一つに入った。そこまでは、東大卒の利点を生かす「賢い生き方」をしていた、といえる。

だが、当時の私は不満タラタラだった。就職活動の初めから、何かに強烈な違和感を覚えていた。バブルの余韻が残る当時、東大生にとって就職活動はごく簡単だった。私はあっという間に内定を決めた。その後の秋の「内定式」とかいう儀式は実にくだらないと思った。なぜこんなものが必要なのか?そのとき、お偉いさんのスピーチを聞きながら、「絶対に1年以内にやめてやる」と心に誓った。

銀行で働き始めても、いろいろ疑問は募るばかりだった。私が配属された内国送金課では、顧客ごとに、すべて異なる優遇送金手数料の計算式があって、それがボロボロの古いノートに手書きで記されていた。ベテランの女子行員たちは、すべて空で覚えて、的確に事務処理していたのだが、そもそもこんなことをすること自体があほらしいと思った。そもそも、なぜ融資先の客ごとにこんなに複雑に手数料を変えなくてはいけないのか?それも1件数百円のわずかな金額であり、年間を通じてもせいぜい数万円程度だ。

融資条件さえ、顧客ごとにきちんと設定すれば、送金手数料など一定でよいではないか?百歩譲って手数料計算が顧客ごとに必要だとしても、ここまで複雑ならシステムを使って合理化すべきじゃないか?パソコン1台に簡単なデータベースソフトウェアがあれば、仕事はずっと合理化できるはずだ。しかし、支店の幹部にそう提案しても「君、システム化はいろいろ難しいんだよ・・・」とニヤニヤしているばかり。

何かが間違っている、と私はそのとき強く感じた。私は、銀行を半年でやめた。総合職同期の中で退職者第一号だった。私は、「東大カード」を捨てた。

紆余曲折の後、私はソフトウェア技術者になった。仕事は、大手企業の社内システムの構築の請負が多かった。私は、下っ端のエンジニアにすぎなかったから、システム設計に口出しすることは出来なかったが、そもそもそんなシステムがなぜ必要なのか理解できないことも多かった。システムを作る前に、まず業務改革すべきではないのか。そもそもその部署自体が必要なのか?

顧客の仕事の進め方もひどかった。顧客側の責任者が誰なのかわからない。顧客側の担当者が GO サインを出して、こちらが作業を進めていても、顧客社内の都合で、仕様変更が頻繁に起こる。その度に大幅な作業のやり直し。ソフトウェアの品質はどんどん劣化する。こんなことをしていたのではソフトウェア開発で利益をあげるのは難しい。

私は、日本企業の仕事の進め方、組織の作り方そのものが信じられなくなった。私は、彼らのやり方を常に批判的な目で見ていた。私は、彼らのやり方に染まらないようにしよう、と密かに誓った。日本的な仕事の進め方に批判的だった私は、当然のこと、日本企業で責任のある立場に立つことはできなかった。人々も私が「危険思想」の持ち主であることに勘付いていただろう。私は、言われたままにソフトウェアを作り続ける一介の職人の地位に甘んじるしかなかった。

いま日本企業が行き詰まっている。とくにかつての花形であった、総合家電メーカーの凋落が著しい。ひょっとしたら、彼らの組織の作り方や仕事の進め方が根本的な部分で間違っている可能性はないだろうか。日本人は、仕事と学校の勉強は全く別のものだと考えている。仕事のやり方は、すべて先輩から後輩へ OJT で伝えられる。それは、理論的に検証されたものというより、ある時期、上手く機能した経験則の集大成であることが多い。しかし、そのやり方が機能する前提条件が変化したのに、相変わらず同じやり方を続けようとしてはいないだろうか。

私は、MBA がすべてとは思っていない。だが、日本企業の管理職・経営者は、あまりに過去の成功体験だけに基づいて経営をしていないだろうか。彼らは、少しは経営の理論も学ぶべきではないだろうか。

人と人の協力のあり方を根本的に再検討するのは、難しい課題だ。当たり前に信じている常識を疑うのは難しいからだ。「顧客は神様だ」「成果を上げるには長時間働くしかない」「顧客が次々に要求を変えても黙って従うしかない」「どんなにコストがかかっても欠陥はゼロにしなければならない」「いいモノさえ作れば売れる」「会社は家族であり、従業員は会社へ忠誠心を持つべき」等々、長年、先輩から後輩へ伝え教えられてきた信念を一から見直すのは、大きな精神的抵抗が伴う。

しかし、日本経済が長期低迷を抜け出すためには、日本人の一人一人が、新しい時代の環境に照らして、古い信念を検証し、捨てるべきものは捨て、残すべきものは残し、新しい信念を形成していかねばならないのではないか。その過程で、日本人は外国企業の経営のあり方や、最新の経営理論からも謙虚に学ぶべきだ。

「日本というシステム」の持続可能性がいま試されている。日本人が厳しく自己と向き合うことになしに、この危機を乗り越えることはできないのではないだろうか。