柔軟な心を持ち、謙虚に学び続けること

数日前、Twitter で「頭で稼ぐ時代に、汗をかくことは意味がない」と書いたところ「肉体労働者たちの仕事も社会には必要だ」という意見をいただいた。そもそも、私はホワイトカラーの仕事について述べていたのであって、肉体労働者のことは念頭においていなかった。やや面食らったのだが、その後あれこれ考えてみて、思ったことを記してみる。

私は来月で40歳になる。平均寿命が80歳という時代なので、ちょうど人生の折り返し地点か。「もう半分しかないか?あと半分もあるか?」と聞かれれば「あと半分もある」という気がする。もちろん80歳まで生きられる保障はどこにもないけどね。

私が大学を出たのが23歳のとき。それから17年間いろんな仕事をしてきた。転職回数はたぶん10回以上。(たぶん、というのはもう多すぎて正確にカウントできないという意味)仕事は大体 IT 関係が多いのだが、実は肉体労働の仕事もずいぶんやった。群馬県のバス工場で3ヶ月間、規制直前のフロンを詰める作業をやったり、2ヶ月間地元の道路工事の現場で交通誘導のガードマンの仕事をしたこともある。学生時代は、家庭教師や塾講師といった「知的労働」が性にあわず、主に肉体労働(軽作業)の仕事ばかりしていた。

私は、自分の人生に慣れすぎていたので、こんなの当たり前だと思っていたのだが、実は大学出の人間にしては、肉体労働をよくやっているほうなのかもしれない。「肉体労働の仕事も世の中必要なんだ。嫌な仕事を率先してやってくれている人たちがいるから世の中回るんだ」とか言っている人たちの中には、実は頭でっかちなインテリによる「同情という名の軽蔑」が含まれていないだろうか。

私の意見では、現実の肉体労働者たちにはいろんな事情がある。しかし、現代の日本で長く肉体労働が続けている人たちの多くは、その仕事が100%嫌いではない。もちろん仕事をしないで済むなら一番だ、と考えているかもしれない。しかし、世の中にある、いろんな仕事の中でやるなら、肉体労働が気楽でいい、と考えている人たちはたくさんいる。

知的な人たちほど、単純な反復作業に苦痛を感じるものだが、じつは、そういう作業を好む人たちも結構たくさんいる、ということを私は経験を通じて知った。世の中には実に多様な仕事があり、その多様さと釣り合うほど、人々の性格も多様なのだ。「蓼食う虫も好き好き」とはよく言ったものだ。

私が、労働の流動化に賛成なのも、ここらへんの経験が基礎にあるのかもしれない。日本人は一般的に転職を嫌い、多くの人たちが学校を卒業したあと、1つ2つの職場を経験するだけで終わってしまうことが多い。私は、幸い(?)、おびただしい数の職場を経験したので、世の中にはいろんな仕事があること、職場によって考え方や雰囲気がぜんぜん違うことを体感することができた。一つの職場では愚図扱いの人も、別の職場ではヒーローになれるかもしれないのだ。日本人はもっと自分の資質に自信を持つべきじゃないか。あなたの力を喉から手が出るほど必要としている職場が広い世界のどこかにあるかもしれないのだ。

何歳でも学び成長し続ける時代

日本人はやや年齢を気にしすぎるんじゃないか。儒教的な影響や、自分と相手の年齢を知らないと話す言葉を組み立てられない日本語の特性もあるのだろう。カナダに住んでいたときの経験でいうと、カナダ人たちは日本人よりずっと年齢に関して無頓着だった。会話の中でも「あの人いくつかな?」という話が少なかった。求職活動では履歴書に生年月日を書く必要はない。学校の卒業年次でだいたい推測はつくだろうが、面接官もことさらに尋ねたりはしない。

20代半ばなのに「私は歳を取りすぎて、新しい分野を勉強することができない」とか言っている人がいる。しかし、私の考えでは、30歳くらいまでに専門性を確立して、残りの人生はその余韻で逃げ切るという考え方は、この人生80年の時代にはそぐわないのではないか。こんなに世の中の変化速度が高まっているのに、30歳までに学んだことで一生乗り切れると考えるのはちょっと考えが甘いのではないだろうか。

物理的に人間の脳がどういう風に変わっていくのかは知らない。ひょっとしたら、加齢に伴って、ランダムな数字を覚えるような能力は下がっていくのかもしれない。しかし、そんなものは社会生活で本質的な能力じゃないだろう。私は 40 歳になろうとしているが、知的能力に関しては 20 年前とそれほどの変化を感じない。単純記憶力は下がっているのかもしれないが、洞察力は 20 年前よりずっとよくなっている気がする。

「歳を取ったからもう頭に入らない」というのはただの言い訳だろう。私は26歳から本格的に IT の仕事を始め、この歳になって USCPA の勉強をしている。私事ながら、母は50歳をすぎて、行政書士になり、日々学びながら、60代半ばの今も元気に仕事をしている。重要なのは、心の感受性を維持し続けることだ。「私は○○歳だから・・・」という言い訳やプライドを捨てて、若い人たちに混じって虚心に努力することだ。そうすれば、何歳になっても常に学び続ける若々しい心を保つことができる。

これは超高齢化社会に突入しつつある日本にとって重要な心構えである。長寿はめでたいが、頑なな老人ばかりになってしまったら、日本社会が硬直してしまう。長生きする人たちほど、柔軟な開かれた心を持つように心がけること。それが日本社会へ対する責務ではないだろうか。

また、労働の流動化はいずれ避けられない。中高年の労働者たちも、年齢を言い訳にすることなく、常に学び続ける姿勢を持つことで、新しい仕事に順応していくことができるだろう。

人生に「遅すぎる」ということはない。柔軟な心を持つかぎり、何歳になっても新しい挑戦を始めることはできるのだ。