優れた評論家の条件

日本批判を繰り返している私だが、それなりに長い社会人生活を送ってきて、日本的な機微もわからなくはないのだ。私がもし上司の立場なら、私のような可愛げない男を部下にしたいとは思わないかもしれない。人間が集まって組織が出来ている以上、そういう感情が入り込むのもまた自然なことだ。

特に組織の中で昇進したいと考えるなら、上司に好かれることは重要だ。上司の権力が強い米国では、日本以上に上司にはおべっかを使うという。米国人もまた人の子である。

私はいつも尖ったことを言っているので、さぞかし神経質な男だろうと思うかもしれないが、リアルな私は、そこまでとげとげしい人間ではない(と思う)。だが、身体が動く前に、いろんな考えが頭を駆け巡るようなタイプではあるらしい。

そういう意味では、私には評論家としての資質があるのかもしれない。それでも、評論家はあまり好きではない。一番偉いのは泥臭く現実を変えていく人たちだ。だから、事業家は本当に偉いといつも思っている。私も事業家になりたいのだが、つい抽象的な方向へ思考が発展する私に向いているのかどうか。

私は、ブログでは、あくまでも理念(=現実を抽象化した仮説)について語っている。私はシステムは批判するが、特定個人を批判するつもりはない。現実は、遥かに複雑で泥臭いもので、現場の人たちの苦労は理解できるからだ。

浮世離れしやすい私にそのことを教えてくれたのは、プログラマーとしての経験だった。

私は、日本の IT 業界の重層下請構造の底辺を歩いてきた。プログラムが書けない元請の SE の作ったむちゃくちゃな設計書を実装するという尻拭いの仕事だ。そこで、現実に動くコードを作るのにどれほど複雑な条件の検討が必要かを思い知らされた。

例えば、政治家がやっている仕事も同じようなものだろう。ある大きな政策を実践するのに、関連する無数の法律や規則を、他の政策との整合性を維持しながら、改正していくのは並大抵の努力ではできない。政治家・官僚の苦労がわからずに文句を垂れる国民は、私が仕事で経験した IT 業界の顧客に良く似ている。やれやれ。

理念は現実の単純化である。現実が複雑だとしたら単純化されたものについて語るのは意味がないのだろうか。実は理念は重要だ。なぜなら、理念なしに「実装の密林」(=複雑な現実)に降りていくと、本当に簡単に道に迷ってしまうからだ。世界を捉える枠組みとしては、理念はやや危険なほど抽象化された単純なものでなければならない。理念が厳密に正しいことはあり得ないが、人間の情報処理能力の制約上やむをえない。

評論家は理念について語る。しかし、評論家にも賢愚がある。

賢い評論家は、現実の複雑さ、恐ろしさをよく知っている。何らかの実務を経験したことがある人だろう。何か理念的なことを熱く語っているときにも、もう一人の覚めた自分が「そんなこと言ったって実務上は・・・」と少し離れた位置から批判しているような人だ。

愚かな評論家は、現実の圧倒的な複雑さを知らず、抽象的な次元で、シンボル操作に終始している。こういう人たちの話は、どんなに明瞭であっても、現実にはほとんど役に立たない。

本当に賢い人は、いろんな縮尺の地図持っている。世界を眺めるとき、25000分の1の都市地図も、世界地図も両方必要なのだ。実務をこなすには詳細な地図が要る。しかし、自分が大局において間違った方向に流されていないか確認するためには、世界地図のような俯瞰的な地図が必要になるのだ。場面に応じて適切な縮尺へすばやく切り替えていくことが重要だ。

私は、自分の言論の弱点を良く知っているのだが、しかし、その弱点に正面から切り込んでくれる人はほとんどいない。批判する人はときどきいるけど、たいていは的外れ。みな優しいのか、私に関心がないのか。結局、自分ほど自分に対して厳しい存在はいないのかもしれない。
(Twitter のつぶやきより再構成)