必要なのは「共通語としての英語」
日本企業は「社内公用語=英語」しないともう世界で生き残れない - My Life in MIT Sloan
から始まった定番の「英語できないと生き残れないよ」論争。「生き残る(survive)」という言葉をわりとアメリカ人は良く使うのかもしれないが、なぜか日本では受けが悪く、以前、梅田望夫さんもこの言葉をブログで書いて炎上していた。案の定、上のエントリも大騒ぎに。
そういう一連の騒ぎを煽るかのように、投入された増田。
アメリカで Ph.D まで取ったある英語オタクの独白だ。一言でまとめると「日本人が英語いくらやったってムダ。ネイティブスピーカーにはかなわないんだから」。
これに対してすかさず Lilac さんが反論。非常に的をえているので、これを読めば十分だと思うのだが、一応私の意見も書いておく。
この増田氏は、英語に関して想像を絶する努力をしたのだろう。私も一応 TOEIC の点数は満点近いのだが、私などとは比較にならないほど英語の実力のある方と想像する。しかし、そこまでやったのに、ネイティブスピーカーとの溝は埋まらない。彼らのような軽妙なジョークも英語で言えず、アメリカで生きるとしたら、「二級市民」にとどまらざるを得ないだろうと。
この人はちょっとアメリカにこだわりすぎな気がする。もしアメリカで生きて、政治家になるとか、メインストリームの道を歩みたいというのなら、英語が下手なのは致命的かもしれない。しかし、アメリカでも言語がそこまで出来なくても成功できる職業だってたくさんある。(ちなみに、ここで「出来ない」というのは普通の日本人が想像する「出来ない」とは全くレベルが違うのであしからず。日本人がアメリカの大学を卒業した程度の英語力のことを指す)
増田氏は、「共通語(lingua franca)としての英語」と「生活語としての英語」を混同しているではないか。日本人に、必要なのは、前者の単純化された共通語としての英語なのだ。生活語としての英語は、もっと屈折した表現を大量に含んでいて、これを非ネイティブスピーカーが理解するのは難しすぎる。
日本人たちが英語で BBC News が読めて、苦労なくメールで自分の意思を伝えることができて、会話をある程度交わすことができれば、それだけでも視野が大幅に広がる。普段から「英語を勉強しろ!」と主張している私だって別に日本人にネイティブスピーカーになれと言っているわけじゃない。そんなの最初から無理だとわかっているし。
だから次世代のためには、5%の子供たちが通う「英語で学ぶ」英語小学校を作るべきだと主張しているのだが。
英語はツール
この増田氏は、アメリカで何を専攻したのだろうか?英文学とか英語教授法とか英語そのものに関わる分野だろうか。だとしたら、やや気の毒な気もする。英語が出来ないとそれだけで自分の価値がないように感じてしまうかもしれないからだ。そもそも語学は相手を理解し、自分の意思を伝達するための手段にすぎない。本当は語学以外に専門分野があり、それを生かすために語学を習う、というのが正しい姿なのではないか。
英語が本当に下手なときは、意思疎通自体に障害が生じるので、必死に英語を勉強すべきだ。残念ながら、ほとんどの日本人がこのレベルに相当する。しかし、ある程度、英語が上手くなり、意思疎通に問題が少なくなってくると、今度は「何を話しているか」が問題になってくる。Youtube を見るとわかるように、画質が悪くても中身が面白い動画のほうが人気があるのだ。本当に何が映っているか理解できないくらいに画質が悪くないかぎりは。
世界の人々と意思疎通するためには、共通語が欠かせない。英語がたまたま歴史的ないきさつでその地位を占めるに至った。しかし、その共通語としての英語は、ネイティブスピーカーが話す生活語としての英語とまったく同じである必要はない。共通語としての英語では、最低限度の意思疎通ができれば十分なのだ。そして、それを習得することは、日本人にとって手が届かない目標では決してない。