利権の本質
世界銀行がベトナムの行政機構とその問題点に関して詳細なレポートを発表している。
Vietnam - Vietnam Development Report (VDR) 2010: Modern Institutions
レポートの焦点は、地方分権と説明責任に当てられている。その中で、10ページほどを割いてベトナムにおける腐敗(corruption)とそれに対する政府の対応策について説明されている。2005年に包括的な腐敗防止法を制定したものの、道半ばである。市民の感覚としては「昔よりはだいぶマシになったけど、まだまだだね」という感じらしい。このレポートには、さまざまな統計やコラムが掲載されていて興味深い。
腐敗は、ベトナムだけでなく、ほぼ全ての発展途上国共通の問題だ。法制度や政府のガバナンスが未整備の国においては、そもそも行政上の透明なルール自体がなく、多くの決定が官吏の裁量に任されている。また公式の徴税機能が弱く、税収不足から、公務員の給与が安く抑えられていることも多い。こうした状況では、腐敗は、一部の不心得な官吏の問題ではなく、組織的に行われるだろう。つまり政府の各部門が、非公式の税として賄賂を要求するのである。官吏に支払われる賄賂は、部門ごとにプールされ、それが地位の高さに応じて配分されるのだろう。
制度化された腐敗は撲滅するのが非常に難しい。その部門に属する職員全員が共犯者になるからだ。たとえ中央政府が地方政府の腐敗を本気で追及しても、地方政府が証拠を隠滅したり、口裏を合わせたりするのは容易だ。
実は、日本にとってもこれは対岸の火事ではない。日本では、下級官吏が行政手続の「円滑化」の対価として小額の賄賂を要求したりすることはない。その代わり、官吏の利権は巧妙に偽装され、合法性の衣をまとっている。地方交付税交付金と地方公務員の高い給与。特別会計とそれに連なる半官半民の企業群。日本では、法律に従って、白昼堂々、無駄な財政支出が行われる。利権に依存して生活している人たちは多い。
ベトナムせよ、日本にせよ、こうした利権にしがみついて生きている人たちは、私たち「清き正しい人間」とは全く異なる、邪悪で貪欲な野獣のような人々だと思うだろうか?実際には、礼儀正しいごく普通の人たちかもしれない。あなたが毎日電車で顔をあわせているあの人かもしれない。隣人かもしれない。あなたの家族の一人かもしれない。実は、あなた自身かもしれないのだ。
利権を享受してしている人たちは、それを正当化する理屈を持っているはずだ。だから悪いことをしているという自覚さえないかもしれない。むしろごく当然の権利を行使しているにすぎないと信じているはずだ。
こんな例を考えてみよう。
電車に乗りこんで、空いている席に座る。電車がいくつかの駅で停車し、車内が次第に混み合っていく。それでもあなたは座り続ける。席を他の人たちに譲ったりしない。なぜ?と、もし私が尋ねたら、あなたはびっくりするかもしれない。そんなことは当たり前だろう、というかもしれない。
でも、それはそんなに当たり前のことだろうか?あなたは、その席に座るのに追加料金を払ったのか?どこの駅からどの駅まで座る権利があるのか?じつはその席をもっと必要としている人が他にいるのではないか?
これが利権の本質じゃないだろうか。利権を得ている人たちはその享受を当然だと思っている。そしてその上に自分の生活を完全に組み立ててしまっている。それゆえにどんな理由であれ、それを奪われることに激しく抵抗する。
先進国の洗練され偽装された利権であれ、発展途上国のあけすけで原始的な腐敗であれ、利権構造を根絶やしにするのがこんなに難しいのは、それが私たちの心の底に沈殿する淀みのようなものだからだ。これは自分には関係ない悪い人間が犯す「彼らの問題」ではなく、私たち一人一人の心のあり方に関わる「私たちの問題」だと自覚しなければならないのではないだろうか。