個別具体的なモノが人と人を結びつける

私は、自分の環境に対する身体感覚にずっと問題を抱えて来た。外部に存在するモノと十全に関われない。個別具体的なモノに対して関心を抱けない。自分の内部と外部の境界面が油を塗った風船の表面のように完全に滑らかで、内部とかみ合うことなく、外部が永遠につるつると滑って行く感じといえばいいだろうか。

例えばロレックスの50万円の高級時計を買う人たちはどういう心理だろうか?ステータスシンボルだと言えばそれまでとしても、そもそもどうしてそれがステータスシンボルとして機能しうるのだろうか?こういうブランド品を巡る消費行動を私はずっと理解できなかった。

50万円は金持ちにとってもそれなりの出費である。何らかの強い思いがなければ購入には至らないはずだ。よく消費の記号というけれども、彼らにとっては高級時計が一つの記号として機能しているのだろう。そこに自分の何らかの感情を仮託し、身につけることによって周囲に自分を表現している。

誰でも純金の延棒が放つ黄金の輝きに対して身体が無意識的な興奮を感じるはずだ。あるいはみずみずしい若葉が萌える森の中で空気を吸い込めば、その香りに自分が癒されるのを感じるはずだ。そうした身体感覚は幼児から当然にあるのであって、それを否定するのは何らかの心理的抑圧が介在しているはずである。

私は、モノを通じて自分の感情を表現できない。モノに対して思い入れを持つことができない。モノは純粋に必要を満たすための機能的存在であり、それ以上の意味を持たない。だがこれは本来人間として自然な感情だろうか?

思えば、古代人が使っていた土器にさえ、表面に芸術的な文様が彫り込まれている。文様は容器としての機能に何も加えるものではなかったにも関わらず。人間のモノとの関わりは、原初から遊びの要素を強くもっていたのではないか?装飾的要素は単なる冗長性ではなく人間にとってある種の本質ではないか。

近代工場のように、純粋機能性を追求したモノの在り方は、実は人間としては不自然な行為なのかもしれない。工場で感じる無味乾燥は理由のないことではないのだ。私もまたそういう近代の申し子であり、このすべてを抽象化し記号化しようとする衝動はある種の倒錯にすぎないのかもしれない。

私は、子供の頃、小説を書こうと試みて、主人公「私」ともう一人の対話しか書けないことに絶望した。大人になってビジネスを起こそうとしても、そもそも自分の外側の世界の何を変えたいのか分からなかった(いまも同じ)。精神分析風にいえば、たぶん私の外側の世界に対してリビドーが備給されていなかったからだ。

自分の外側に確固たる実体を感じ、それとの関わり合いからある種の快感を引き出して行くことを身体性と定義するなら、私はその身体性をうまく持てないでいる。この失われた身体性をどうやって回復させたら良いのだろうか?

たぶん外に確固たる実体を感じ得ない限り、私は他者と真摯な協力関係を結べないのだろう。所詮、人と人はモノを介してしか繋がることはできないからだ。私たちの言葉は、共有する文脈=外部の実体があって初めて意思疎通可能なものになる。他者に何かを説明するとき比喩が多用されるのは偶然ではない。

人がモノと戯れるのは、子供がそうしているように、本能に基づくものであり、なんら難しいことではない。それが出来ないのはむしろ私の心のなかにある種の構えがあるからだ。その警戒心を少しゆるめてやればいいだけのことのはずなのだが。