日本人をやめる方法

以前ツイッター@tsugamit さんにご紹介いただいた「日本人をやめる方法」。200ページちょっとの新書で、数時間で読破できる程度の軽い読み物だ。だがそこには、日本人と日本文化に対する極めて根源的な批判が含まれている。私は、この著者とあまりに問題意識が重なりすぎていて、書評をどこから書き始めたらいいのかわからなかった。それくらいに私にとっては重い本だ。

日本人をやめる方法

日本人をやめる方法

著者の杉本良夫氏は1939年生まれ。京大を卒業後、毎日新聞社に入社して記者になるが、記者クラブ等古くさい因習にウンザリして3年で退社。米国に渡って博士号を取得し、オーストラリアで大学教授になる。そうやって海外に出て23年経過したときに書いた本である。

最初に断っておくと、この本は最近書かれた本ではない。初版は1990年である。ただこの本を手にする人は、一部の記述を除けば、ほとんど何の古さも感じないだろう。この本に書かれている内容は20年後の2011年にも大部分当てはまる。そのことに驚きを禁じ得なかった。

内容は多岐に渡るのだが、ここでは「班」と「籍」という発想について話そう。

日本で初等教育をうけた人たちは当然のように捉えている「班」。学習班、給食班、登校班…。ところが著者によれば、これは北米、西欧、太平洋州などの小学校にはなく、日本流のものであるという。

5人から8人程度の小集団。そして班と班の間には競争関係があり、班の成績に基づいて評価される。班は小さいがために相互監視の目が届きやすく、そこから子供たちは「小集団内での見張り合い」という心性を身につけるのだ。

「五人組」「隣組」「自治会」「町内会」も同じ「班」の系譜である。これは伝統的な日本の人民統制手法であったと著者はいう。

小さな集団の間の相互競争を通じて、集団の内部の各メンバー同士の相互監視を促進するという手法は、日本で最も洗練されたテクノロジーである(p30)

日本的集団主義の本質がここで見事に描写されているといえよう。「あの人は有給ばかりとって仕事をしない」とかいう日本的なやっかみや嫉妬というのも、小集団内で、相互に監視することを繰り返し学習した結果なのだろう。

著者は「籍」という制度にも目をむける。日本には、住民票や戸籍といった住所に人間を紐づける制度があるか、実はこれは世界的には珍しい。少なくとも欧米には存在しない(私が以前住んだカナダには存在しなかった)。日本語には「籍」にまつわる表現が多い。「入籍」「学籍」「移籍」「転籍」…日本人は、人間を土地や集団等の固定的なものに紐づけることによって、ある種の安心感を得て生きているのだ。

日本では籍を持たない者(土地や集団に所属しない者)に対して非常に厳しい。人間を一人一人個性的な個別の存在として認めるのではなく、所属集団を通じて捉える。社会人が自己紹介するときに「○○社の××です」という風に、所属を明らかにすることを真っ先に始める。日本の特徴的なビジネス慣行である名刺交換もお互いの所属を明らかにして、互いの距離を測り安心感を得るための儀式なのかもしれない。

この他にも目からうろこが落ちる鮮やかな分析が満載である。詳しくは本文にあたってほしい。

「日本人をやめる」という衝撃的なタイトルなのだが、その結果、○○人という他の民族になるという意味で著者は使っているのではない。著者の言葉を借りれば、日本人をやめると「越境人間」になるのだ。つまりどの国家や民族にも、囚われることのない人間、それが越境人間だ。もちろん、現実には私たちはどこかの国の国民になりパスポートを得なければ世界を旅行することもできない。だから、これはある種の心構えである。国家に対して健全な批判精神をもち、どの民族意識や文化にも相対化を忘れない態度のことなのだ。

私は個人的には、こういう人たちを「オフショア日本人」とよびたい。金融の世界で「オフショア市場」という概念がある。「規制や課税方式などを国内市場とは切り離し、比較的、自由な取引を認めた主に非居住者向けの国際金融市場」のことなのだが、日本人をやめた日本人は、こうした沖(オフショア)の公海を漂うような人間になるのだ。

かつて5カ国に住み、5カ国語を理解する私はまさに「越境人間=オフショア日本人」そのものである。そして、この「オフショア日本人」こそが私の「所属」する場所であり、一種の民族意識に近い。私は同様の「オフショア日本人」を見るとき、激しい親近感を抱かずにはいられない。私はこれからの残りの人生で、「日本人をやめた」オフショア日本人を増やし、連帯していく運動を身を投じるつもりだ。