日本的同調圧力を乗り越える方法

日本人の行動パタンはなにかと外国人にはわかりにくい。たとえば現在の政界の動静を見ても、誰がどういう基準で行動しているのかさっぱりわからない。民主党自民党も、さまざまな思想を持つ人たちの寄せ集めにすぎないからだ。

津上俊哉氏(@tsugamit)も日本のそうした現状に不満を抱く一人だ。1957年生まれ。東大法学部を卒業した後、通産省に入る。その後、外務省に出向、中国畑を歩んだ方だ。いまは役所を退職して、中国投資を専門とするベンチャーキャピタルの代表を勤める。中国経済の実践的専門家である。

津上氏執筆の「岐路に立つ中国」の書評を以前書いたこともある。私は未読だが「中国台頭」では、サントリー学芸賞を受賞している。

岐路に立つ中国―超大国を待つ7つの壁

岐路に立つ中国―超大国を待つ7つの壁

中国台頭―日本は何をなすべきか

中国台頭―日本は何をなすべきか

津上氏は、現在の日本の混迷を分析するために、森 有正(もり ありまさ)という古典を読み進めて行く。1911年生まれ、1976年没。フランス文学者・哲学者。明治時代の政治家・森有礼の孫である。名門の血を引き、幼少の頃からフランス人教師にフランス語を学ぶ。1938年に東大を卒業し、1948年に東大文学部助教授に任じられるも、1950年に戦後初めて海外留学が再開されるとフランスに留学。そのまま東大にもどらず、日本語教師としてパリで一生を終える。

森が逃げるようにフランスに渡ったのは、フランス人教師から幼少のころ学んだ思想と日本文化の大きな食い違いに、内心の苦しみを感じていたのではないだろうか。晩年には哲学的エッセイを出版することにより、日本の読者にも知られるようになる。

津上氏は、森有正のテキスト(脚注)に刺激を受けて、長編のブログエントリを書き綴る。それが

森有正の 「日本語・日本人」 論(学習ノート)

である。これは、長大な文章なので、私は手元の Kindle 3 で読めるように EPUB 化した。下からダウンロードして、EPUB リーダーで読むと楽かもしれない(表紙のデザインも私がやりました。「書評人社」出版はシャレです(笑))。

森有正の 「日本語・日本人」 論(EPUB)

森有正の 「日本語・日本人」 論(EPUB形式)
森有正の 「日本語・日本人」 論(MOBI形式) - Kindle 用

この「電子書籍」は、大きく前半と後半に分かれる。前半は、森有正のテキスト読解である。後半は、それに基づいた日本社会の人間関係や組織の成り立ちに関する考察である。正直言って(津上氏本人も認めている通り)前半はかなり煩雑な印象。前半から読み始めると、挫折してしまうかもしれない。そこで【第六回】「二項関係」と「共同体」(日本人の集団帰属の生態)あたりから読み始めたほうがよいかもしれない。

ただし「二項関係」というキーワードだけは理解しておいた方がいいだろう。森自身の解説は、小難しいので、私なりの理解を書く。二項関係とは、要するに「自分自身の内面ではなくて、外の人間関係や集団に自分の拠り所をみつけよう」という考え方である。つまり独立した個人として「私は私だ」と考えるのではなく、「私は○○の妻だ」「私は○○会社の社員だ」等、人間関係や集団に属するものとして、自分を捉えるということである。日本人は、二項関係こそが行動原理だ、と森はいうのだ。

「行動原理だ」と断言してしまうとやや語義矛盾かもしれない。要するに、日本人は人間関係さえ円滑に維持できれば、あとは何でもアリなのだ。日本人ほど原理原則に無節操な民族を私は世界で見たことがない。これが一番端的に現れるのは宗教においてだ。日本人が外国に行って「自分は無宗教です」と何気なくいうと、その土地の人はみなぎょっとした顔になる。宗教を持っているのは当たり前で、宗教を持つ以上はその教義に対して忠実でなければならないというのが世界の常識だ。「無宗教」などと言ったら、ニーチェの「神は死んだ」という宣告のような、非常に強い哲学的な立場を表明することになってしまう。ただ日本人はそんな難しいことを考えているわけではなくもっとのほほんとしているのだ。

【第五回】で津上氏は「日本人は言葉が指し示す意味合いを大切にしない」と述べているが、これも日本人の原理原則に対する無節操さを表している。日本がソフトウェアの分野で大きく立ち後れているのは、このせいだと私は常々考えている。ソフトウェアは、当然目に見えないものだ。すべての約束事は、仕様書という自然言語か、プログラムという人工言語で記述される。日本人は、こうした言葉そのものに重みを感じとることができないようだ。日本のソフトウェア技術者なら誰しも経験済みのはずの、顧客からのたびたびの仕様変更などは、顧客と開発側で合意したはずの仕様書は「とりあえず」のものにすぎない、という日本人の感覚から生じている(そして、この緩い感覚を共有しない外国人との間にしばしば問題を引き起こす。日本のソフトウェア業界がなかなかオフショア開発を活用できないのはこれが一因である)

私の理解が足りないのかもしれないが、林有正氏の外国語理解はヨーロッパ語、特にフランス語に偏っていて、比較言語論しては、やや荒削りに感じた。話し手と聞き手の関係性をはかりながら、複雑な言い回しを使うのは、実は日本語だけではない。津上氏が例に挙げている韓国語だけではなく、ジャワ語では精緻な敬語表現があると言われるし、私がかつて学んだことのあるベトナム語の人称代名詞は親族名称が流用され、非常に複雑だ。日本語の語順は S(主語)+ O(目的語) + V(型)だが、じつは SOV 型言語は、語順別では最大のグループ(45%)であり、日本語とはぜんぜん関係ないインド諸語(ヒンディ語等)も SOV 型なのだ。

言語が文化に絶大な影響を与えているのは間違いないし、日本語と日本文化は相互依存の関係にあり切り離せないのは確かだ。だがこれを厳密に論証しようすると、しばしば言語研究マニアから「待った!」の声が掛かることになる。日本語のたいていの要素はどこかの言語と類似していることが示される。私としては森有正がどこまで真実を突いたことを述べているのかはわからない。個人的には、英訳するときの経験から、日本語の主語や目的語を文脈に依存してどんどん省いていく性質にウンザリしているし、これが日本人の無責任体質を助長しているのは間違いないと考えているが、たぶん「科学的に論証」するのは難しいだろう。

林有正の引用解説はさっと読み流しつつ、むしろ津上氏の「独断と偏見」による日本文化論を中心に読み進めるほうがおそらく興味深いはず。たとえば「日本人は脳内物質過剰摂取症?」という節では「日本人が対人関係「合一」の快さに馴れてしまう様は、どこか薬物の習慣性に似ている」と述べているが、これを日本のオタクたちの「萌え」文化と関連づけて考えることも可能だろう。【第七回】における中国文化と日本文化の比較は、さすが中国の専門家だけあって鋭いし、私自身の半年間の中国滞在経験から考えても頷かされることばかりだ。

【第八回】において、日本の政治の情けなさを一刀両断する。そして最終章【第九回】で、日本的な空気は 9/11 直後の米国のような異常な動揺に見舞われた他の社会にも存在しうることを指摘し、日本文化だけのものではないと宿命論を否定する。ただ、日本がこのまま、二項関係に起因する空気に流されて行った末路は、明治維新の粛正や太平洋戦争における破滅のような悲惨なものになると警鐘を鳴らす。日本が過ちを犯さないためには、日本人一人一人が同調圧力に屈せず「それは違うと思いますよ!」と自分の意見をはっきり表明するべきだと主張する。

抜本的解決策としては、それしかないとは思うものの、いまの日本人の姿を見ていると多少の心もとなさは否めない。津上氏や私が「同調圧力に屈せず自己主張する」という感覚を学び得たのは、津上氏にとっては中国、私にとってはカナダのような、日本文化とは全く異質な外国を身をもって経験したからではないだろうか。日本人が日本にとどまったまま、本を読んだり他人の話を聞くだけで、こうした態度を身につけうるとは、残念ながら私には考えにくいのだ。

従って、私は、日本人が若いうちに一度外国に出て、勉強したり働いたりすることを支援したい。これは必ずしも日本を裏切るということにはならない。日本に生まれ育った人たちは、一旦外国に出ても必ず一定の割合で日本に戻ってくるからだ。そのときに彼らは日本以外のさまざまな文化について学び、日本文化を相対化して見られるようになっているはずだ。こうした人々こそが、私はこの忌まわしい「日本の空気」を打破する力になると確信している。

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(脚注) 参考文献

経験と思想

経験と思想

森有正エッセー集成〈5〉 (ちくま学芸文庫)

森有正エッセー集成〈5〉 (ちくま学芸文庫)