「合成感覚」の時代

ある興味深い比喩(メタファー)を思いついたので、ここに記すことにする。これが単なる比喩以上の意味があるかはわからないが、何かの思考の整理にはつながるかもしれない。19世紀が「合成素材」の時代の幕開けであったように、21世紀は「合成感覚」の始まりの時代かもしれない。

19世紀は化学の躍進の世紀だった。人類は無機物から複雑な有機物を作り出すことができるようになった。人間にとって有用な化学物質は多く有機物だ。化学工業は19世紀末から20世紀初頭にかけて長足の進歩をとげ、人類の物質的生活に不可逆的な大変化をもたらした。

今日私たちは、化学的に合成された材質に取り囲まれて生活している。衣服・建物・移動手段…すべて合成素材を抜きには語れない。一方で西暦1800年以前の世界には、化学的に合成された素材はほぼ皆無だった。すべてが自然素材だったのだ。

私たちは、化学的合成物ではない自然素材を完全に捨て去ってしまったわけではない。むしろ愛している。だが、希少で高価だ。現代社会で合成素材抜きで生活するのはもはや不可能だ。私たちは、自然と合成の素材を適宜組み合わせて生活することに慣れ切っていて、もはや何の違和感も感じていない。

先日、自動車会社に勤務する友人と、若者の「車離れ」現象について議論した。彼は、いわく最近のビデオゲームがあまりに実際に車を運転するのと同様の体験を安価に経験させてくれるので、車の売上に影響しているのではないか、という説を唱えていた。

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私は電子機器からもたらされる、現実とは異なるがそれに近い感覚を「合成感覚」と呼ぶことにしたい。化学的に合成された「合成素材」とのアナロジーである。30年前からIT の普及に伴い「合成感覚」は急速に私たちの生活のなかに浸透してきている。それ以前には「自然感覚」しかなかった。

電子機器によってもたらされる「合成感覚」の最大の特徴は、時間的・空間的拘束から比較的自由で、豊富かつ安価であることだ。それは、化学的な「合成素材」が大量安価であることとよく似ている。21世紀は、合成感覚の基調にときおり自然感覚が混ざるような生活が基本になるのではないか。

自然感覚 - 21世紀初頭の我々がまだ「リアル」と呼ぶもの - は、確かに最も純粋な体験ではあるが、同時に最も高価である。実際に人が物理的に移動してどこかに行き、何かを見たり誰かに会ったりするのは、時間的・エネルギー的・金銭的にコストが高い。有限の物理的資源のなかで、人々がより豊かな経験を享受しようと思えば、日常に味わう感覚の大部分を合成のものにするしかないではなかろうか。私たちが、ふだん触れる物質の大半を化学的に合成された物に置き換えてきたように。

自然感覚から合成感覚へのシフトは、経済の付加価値の中心がモノから情報へ移動して行くことも同時に意味している。思い出してほしい。カネを使って自然に取引できる対象は、「使ったり、あげると消える」モノでしかないということを。情報は、シェアしても手元から消えることはない。これは、経済がカネとは関わりのないところで営まれるようになる(経済の非貨幣化)を意味している。

私はそういう意味で Skypeビデオチャットのような非言語的な意思疎通を促進する IT ツールの進化に熱い視線を送っている。

最後に告知になるが、私はいま TEDee 風の「TED による英語ディスカッション」を試験的に Skype の上でやろうと思っている。Skype Premium(6ユーロ/月)に入ると、3人以上の同時ビデオ通話が可能になる(CPU パワーとネット帯域を大量消費するので、いまのところ同時5名程度が限界かもしれない)。参加希望の方は、@elm200 か eijisakai@gmail.com までご連絡ください。第1回を一週間以内に開催するつもりです。

21世紀は「合成感覚」の時代だ。モノからの消費から直接生み出される感覚が自然感覚ならば、合成感覚は IT 機器から、きわめて高いエネルギー効率で作り出される。21世紀は、合成感覚の普及によって、人類によるモノ(≒カネ)への接し方は大きく変化するだろう。