ソーシャル拡大家族による新時代の社会保障

昨日、パブリック・マン宣言というエントリーで赤裸々に自分の財務状況を告白したところ、古い友人から、こんなメッセージが飛んで来た。

本当に150万しかないの?親倒れたらどーすんのよ。持ち家も固定費かかるのよー

友人は、歯に衣を着せない人で、本気で私のことを心配してくれたのだろう。感謝しつつも、この件についてはいろいろ考えさせられた。

父はずっと前に亡くなり、私には母しかない。母は60代後半だが、法律系の自由業をしている。仕事は順調で稼ぎは悪くない。いま住んでいる家は母の持ち家だが、確かに固定資産税の他に、定期的に修繕費がかかる。当面は、母の稼ぎと貯蓄で十分やっていけるだろう。この点は、私は1年ほど前にこの家にやってきた居候にすぎない。

母は、歳のわりには実に健康な人で、医者に滅多に行かないことを自慢の種にしている。そうは言っても人間であるから、歳を取れば病に倒れることもあるだろう。実際、人の老い方は千差万別で、多大の医療費を掛けて長年苦しみながらこの世を去る人もいれば、文字通り突然「ポックリ逝く」人もいる。母の場合どうなるかはまだわからない。

そもそも、病気や死に備えるとしても、いくらあれば適当なのか?150万円では確かに少ない気もするが、500万円なら安心なのだろうか?それとも1000万円?貯蓄が多い人ほど、普段の生活水準が高いので、結局いくらあっても、十分な蓄えにならないという可能性もある。

老いと死に掛かる必要費用というのは、じつは非常にあいまいなものではないのか。だから、老人たちは必死になってカネを溜め込むのだ。だが、見方によっては何だか滑稽な感じもしなくもない。本当に起こるかどうかもわからない出来事のために、いまの人生の楽しみを犠牲にして節約生活するというのは、いかがなものか。

最善なのは、実際に大病をわずらい、自分の貯金が尽きはてた時、「誰か」がその老人を助けてあげることだ。病気になることは、誰の責任でもない。老後、自分が病気になっても、誰かが必ず助けてくれると思えば、安心して暮らすことができるだろう。

大昔は、老人を助けるのは家族の役割だった。その家族は、いまのような核家族ではなく、老人を中心として、子供や孫はもちろんのこと、老人の兄弟、その子供たちを含む、拡大家族だ。そもそも昔は貨幣経済が発達していなかったので、人々は金融的な資産を持っていないかった。自分の身体が動かなくなった後は、食料や衣服や住居の提供を家族に頼るのは当然のことだった。

工業化の進展に伴い、人口が農村から都市へ移動し、拡大家族が粉砕された。病気の老人たちを見殺しにするわけにはいかないので、年金や公的医療保険が発達した。つまり国がかつての拡大家族の代わりをするようになった。

年金制度は、最初はうまく行った。若者が多く、老人は少なかったからだ。ところが少子高齢化が進むにつれて、制度がきしみ始めた。公的医療保険も、老人医療費の増加に苦しんでいる。いまのようなやり方では将来確実に破綻するだろう。将来給付が減らされるのはほぼ確実だ。国も密かに拡大家族の役割から降りようとしているのだ。

では私たちはどうすべきなのだろうか?

そもそも、私たちが誰か他の人を助けたくなるのはどういうときか?相手のことを良く知っていて、自分の力で、相手の人生を大きくよい方向に変えられるときだ。

お互いに秘密をなくしてぶっちゃければ、困ったときに助けやすいし助けられやすいんじゃないだろうか。私たちはパブリックになることで、国に頼らずとも互いに助け合う仕組みを作れるんじゃないだろうか。それが21世紀の新しい「ソーシャル拡大家族」だ。

これは長年の理想だった。昔は実現が難しかったが、インターネット時代になってはじめて技術的に可能になった。インターネットは、長年に渡ってある人の評判を蓄積していくからである。インターネットは、評判の銀行口座だ。そして、多くの評判をもつひとはより助けられやすくなる。それこそが本当の「老後の蓄え」なのかもしれない。

付記:

イケダハヤトさんは、「これから国の社会保障は破綻する。民間の人々が互いに支え合う仕組みをつくっていかねばならない」と述べているが、私の結論もそれに近づきつつあるのかもしれない。私は読んでいないのだが、彼のこの論評を読むかぎり

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―

で描かれるような世界へ向かって行くのではないか。カネを投じる側は、それが社会的に有意義に使われてほしいと願う。その判断をつけやすくまた成果が見えやすい透明性の高い組織や個人へカネが流れて行くのではないだろうか。新時代の社会保障もこうした潮流のなかで生まれてくるかもしれない。