先進国からモノ作りが消える日

新興国が「世界の工場」となりつつある現在、日本を含む先進国からモノ作りが事実上消滅しつつある。私たちは、モノ作りに頼らない経済を打ち立てなければならない。そのためにはどうしたらいいのだろうか?

結論を先に言ってしまうと、サービスを売るしかない。サービスを高く売るためには、評判の蓄積が必要だ。「人々が評判を蓄積し、サービスをカネと交換する」過程を支援するビジネスが大きく伸びて行くだろう。

以下、細かく検討していくので、興味があれば読み進めてほしい。

伸びるモノの供給力

私は、書評「働かざるもの、飢えるべからず」でこう書いた。

思考実験をしてみよう。仮に全ての日用必需品やサービスがロボットによって自動的に生産される時代が訪れたとしよう。そのとき人間が「労働」する必要はなくなり、全て「失業者」になる。誰もがカネを稼げなくなるが、同時に有り余るほどの物質的豊かさがある。富はどうやって分配されるのだろうか。

これは極論だけれども、先進国の経済は、この姿に徐々に近づきつつある。ますます多くの仕事に人手が要らなくなりつつある。人間を必要とせずに人間が必要とする以上の物質を生産できるなら、そのとき経済はいったいどういう形を取るのだろうか。私たちは人類史上初めての新しい挑戦を受けている。

先進国では、農民はほとんどいなくなった。製造業の従事者たちは、いま猛スピードで減りつつある。製造業の生産プロセス自体が陳腐化して、比較的容易に新興国へ移転できるようになった。必要なのは、若干の手作業に従事する労働者だけ。労賃が高く規制の厳しい先進国から、労賃も安く規制も緩い新興国へ工場が移って行くのは当然のことだ。仮に先進国に工場が残ったとしても、生産プロセスは究極まで効率化され、人手がほぼ不要になる。大量の雇用を生まないなら、一般人にとっては、工場がなくなったのと同じことだ。

経済評論家たちは、日本の製造業の火を絶やすな、とヒステリックに叫ぶ。だが、製造業がなくなることが本当にそんなに悪いことだろうか。私は昔、バス工場の組立工として3ヶ月間働いたことがあるが、工場の労働環境は人間的とはいいづらい。日常生活から隔絶された機械だらけの人工的な風景の中、騒音や異臭があったり、何かが落ちてきたり、機械に身体を挟まれたりしてケガをすることも多い。仮に再び円が安くなって製造業の輸出競争力が増したとしても、若者たちが油まみれになって製造現場で働きたいと思うだろうか?日本人がついに肉体的苦役から解放されるのだ。そう考えれば工場が消えて行くことは喜ばしいことではないのか。

工業自体がコモディティ化したおかげで、私たちの生存に必要な日用必需品は、きわめて豊富に生産できるようになった。100円ショップが日本に初めて登場したとき、それなりの機能と品質を持った工業製品がみな100円で売られていることに驚いたものだ。

縮退するモノへの需要

情報技術(IT)の発達につれて、モノへの需要が減りつつある。

モノの消費には、必要的消費と記号的消費がある。

必要的消費は、人間の生理的欲求を満たす必要最小限のもの。毎日食べるコメとか。記号的消費は、使用価値より承認欲求・所属欲求など社会的な欲求を満たすもの。社会的地位を示す高級車が一例だ。

記号的消費では、承認欲求・所属欲求等の「ソーシャルな欲求」が満たされればよいだけなので、インターネットで代替物を比較的安易に見つけることができる。20年前、高級スポーツカーに群がっていた若者は、今日、コンピューターゲームグランツーリスモ)のプレー動画を Youtube に上げて、「運転」の腕前を競っている。こうしたネット上の活動が記号的消費を置き換えることで、モノへの需要を減らしている。

デジタル機器の多機能化がモノへの需要を減らすこともある。

デジタル機器は、ソフトウェアによって制御され、柔軟にいろんな機能を実現することができるため、さまざまな機械や道具を置き換えていく。たとえば iPad は、かつてのテレビ・パソコン・ラジオ・新聞・CD・DVD・書籍・百科事典・ステレオコンポ・携帯音楽プレーヤー・有線放送等、無数の事物を縮約代替した。こうした動きもモノへの需要を押し下げる。

全員がサービスを売る時代

モノの生産が増え、需要が減る。モノ過剰の時代の到来だ。デフレの根本的な原因はここにある。決して日銀の政策が元凶ではないのだ。モノが本当に不足しているなら、物価は放っておいても上がっていくはずだ。モノが余っているかぎり、どんなに手を尽くしても物価は上がらない。モノはこれからも安くなりつづけるだろう。

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この図で、

  • 20世紀の経済≒新興国の経済
  • 21世紀の経済≒先進国の経済

であるとも言える。先進国から新興国へどんどん工場が移転している現在、「新興国=モノ作り」「先進国=サービス生産」という分業が確立しつつある。世界全体の物質生産力がますます強化され、世界のもっとも貧しい人々も物質的困窮から解放されつつあるのは喜ばしい。私たちは、世界中の人々が豊かに暮らすに十分な物質生産力を備えつつある。

その一方で、モノの生産に関わらない人々が増えてきている。これは先進国において特に顕著だ。私たちは、物理的存在であり、最低限の衣食住が必要だ。衣食住はモノであり、モノを得るためにカネが必要だ。カネと交換できるのは、モノまたはサービスだけであると『「情報を売る」時代の終焉』で述べた。モノの生産に関わらない人々は、まず自分のサービスをカネと交換し、それをさらにモノに交換することによって、自分の生命を維持しなければならない。

統計*1によると日本では、「農業+工業+建設業」のモノ作り従事者は、総就業者の30%。長期減少傾向が続いている。この数はどんどん減って行き、先進国では、遠くない将来「農業+工業+建設業」のモノ作りの従事者が総就業者の10%を切るだろう。事実上すべての人々がサービスを売って生きる覚悟を決めなければならないときが近づきつつある。

サービスを高く売るためには、評判を蓄積するしかない(「カネを媒介としない新しい経済ー21世紀の評価経済論」)。人々の無料の情報発信による評判獲得活動がますます盛んになっていくだろう。同時に、評判をカネに変換する部分(上図の(4)→(2))で、人々を支援するビジネスが大きく勃興するだろう。Google Adsense やアマゾンアソシエイトはその一例だ。ここに先進国の大きなビジネスチャンスがある。