「情報を売る」時代の終焉

結論からいうと、もう「情報それ自体を売る」ことはできませんよ、という話だ。新聞社・出版社・音楽会社・映画会社等々、「情報それ自体を売る」ことを生業にしてきた人たちは、そろそろ商売替えをする準備をしたほうがいい。

情報は、本質的にカネとは相性が悪く、直接、カネとは交換できない(つまり売ることはできない)。カネはモノと同じく排他性をもっているが、情報には排他性が全くなく、カネと情報は根本的に異質なものだからだ。

今日のエントリーはこの論旨を理論的に説明していく。評価経済論の骨格をなす概念なので、興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

モノ・サービス・情報、そしてカネ

経済とは、人間にとって価値のある何かしらを生産・分配・消費する過程のことである。

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(「カネを媒介としない新しい経済ー21世紀の評価経済論」の図に一部加筆。(5)で禁止マークがカネと情報が直接交換できないことを指し示している)

経済にとって、価値があるのは次の3つしかない。

  1. モノ
  2. サービス
  3. 情報

(カネと評判は、やや性格が異なるので、ここでは経済の生産・分配・消費の対象には含めない)
最初にまとめてしまうと、モノ・サービス・情報は、カネとの関係で次のような性質を持っている。

  1. モノはカネと交換できるし、転売もできる。
  2. サービスはカネと交換できるが、転売はできない。
  3. 情報はカネとそもそも交換できない。

表にすると次のようになる。

  転売可能性・有 転売可能性・無
カネとの交換可能性・有 モノ サービス
カネとの交換可能性・無 - 情報

モノの本質は、その排他性にある。モノは、誰かと同時に使用することができない。誰かにあげると手元から消えてしまう。私たちはモノに取り囲まれて生きているので、こうした性質は自明だろう。モノは有限で共有できない(排他性)ので、希少でもある。つまり何らかの方法で常に節約されなければならない、ということだ。*1

サービスは、排他性があるという点でモノに良く似ている。サービスは、目に見えないが、その場で直ちに消費されて、人々の喜びを増やしたり、苦しみを減らしたりする。サービスは、誰かと同時に使用することができない。つまり排他性がある。だが、モノと違って、サービスを誰かに渡すことはできない。サービスは、かならず提供された瞬間に消費されるからだ。モノが物理的実体をもつゆえに、転売可能なのに対して、サービスは転売不可能である。これがモノとサービスの違いだ。

情報は、モノやサービスと全く異なり、「本質的に」複製コストが全くかからない。この性質は、情報が紙やビニールレコードの上に記録されていた時代には、見過ごされていた。当時は、情報は必ずモノの上に刻み込まれ、現実には排他性を持つモノとして流通していたからである。コンピューターとインターネットの登場によって、情報の本質が徐々にあきらかになった。情報には、排他性が全くない。いくら他者に渡しても、全く同じ情報が手元に残る。情報は共有できる。むしろ共有されるのが自然な状態だ。情報は社会の隅々まで自由に拡散していく。

カネとは何だろうか?人々は常にカネを追いかけているが、それ自体には何の価値もない。コインや紙幣を食べることもできないし、それが直接、薬になって病気を治すわけでもない。カネは、あらゆるモノと交換されうるからこそ、価値を持つのだ。カネは幻のようなものだ。ポール・グラハムが言うように「カネはモノの省略記法」なのだ。したがって、カネはモノと同じ性質を持っている。カネは誰かと同時に使用することができず、誰かに渡すと手元から消えてしまう。つまりカネは排他的である。

重要なのは、カネは同じく排他的な何かしらのものとしか交換できないという事実だ。排他的なものは、モノとサービスであった。カネは、モノとサービスとは交換できる。だが、カネは情報とは交換できない。情報には排他性がないからだ。

本当にカネと情報は交換できないのか?と疑問をもつ人もいるだろう。本や CD が実際はモノとして売られていることは認めるが、AppleiTunes で純粋な音楽情報を売っているではないか、と。私はこの場合、Apple は情報ではなくサービスを売っているのだと考える。実際には、いまや、ほとんどの商業音楽は Youtube 等の動画共有サイトP2P ファイル共有サービスに行けば、入手することができるからだ。AppleiTunes を通じて、音質のよい音楽ファイルが合法的に入手できるという安心感の提供というサービスを売っているのだ。情報自体を売っているのではない。

著作権に関する議論は果てしなく迷走している。情報は無限に複製され共有されるのが本質という自然法則に反して、モノを規定する法律を当てはめようとするから、限りない迷宮に入り込んでしまうのだ。共有状態が原則の情報に、占有が原則のモノの法律は適用できない。

ディジタル著作権

ディジタル著作権

(ディジタル著作権をめぐる錯綜した議論を大胆に整理している刺激的な良書。著者の名和氏も『問題は、私たちが著作物という「情報」を対象にしているのに、「所有権」あるいは「財産権」などという概念に捕らわれていることにあるのかもしれない』と述べている。私の書評はこちら

どんな法律ができようが、著作権団体が騒ごうが、出版・音楽・映画などのコンテンツ産業の大企業が苦情を申し立てようが、情報は共有されてきたし、これからも共有されつづけていく。書籍の電子化は始まったばかりだが、いずれ「書籍界の Youtube」のような(違法)書籍共有サイトが現れるだろう。有料の電子書籍と無料のウェブコンテンツの境界線はあいまいになり、文字情報を有料で売ることはこれからますます困難になっていく。

それは情報は共有されるのがもっとも自然だからだ。それは自然法則の一部なのだ。われわれは、誰一人として自然法則には逆らえない。一定期間、ありとあらゆる不格好な抵抗をすることができても、最終的には自然法則に降伏するしかない。

私たちは、まもなく、情報が物理媒体に刻み込まれていた時代に別れを告げることになる。すべての情報は、インターネットに、無料で解き放たれて人々によって自由に共有されるだろう。情報を有料で販売することはもうできない。全く新しい時代を生きる覚悟を決めるべき時なのだ。

*1:排他性のないものは、共有できてしまうので、存在量は問題にならない。逆に排他性があっても事実上無限に存在するために希少性がないもの(例:空気)もある。だが、ここでは問題にはしない