古いゲームから降りよう- 正しい問いを立てる大切さ

イケダハヤトさんが素敵なことを言っている。

ゲームから降りる | ikedahayato.blog

例えば「サラリーマン」という言葉で想起する生活は、ある種のゲームでしょう。

・いわゆる「就活」をして、新卒で良い会社に入る
・毎日同じ時間に同じ場所に出社する
・自分と同じ条件のプレーヤーが無数にいる
・出世に代表される、金銭的な成功・豊かさが主な評価軸となる
・ローンという名の借金を背負い、返済するために働く
・スクールに通い、資格を取る
・「自立し」、家族を「支える」ために働く

こうしたゲームから抜け出すことで、色々な世界が開けます。

ゲームの降り方として、それぞれ対応したものを挙げれば、

・既存の就活ではない方法で、仕事を見つける
・時間と場所から開放されて仕事をする
・自分と同じような条件の人は非常に少ない
・出世や年収は、成功・豊かさの主な評価軸ではない
・ローンはしない
・スクールを自分で立ち上げ、安価な学びのコミュニティを作る
・家族と「共存」する(例えば、賃貸から親の持ち家での同居に、など)

なんて生き方になるのでしょう。

永遠に続く椅子取りゲーム。減って行く椅子にしがみ続ける切なさ。疲れ切っているのにやめるにやめられない。もし降りることができたらどんなに素晴らしいだろうか。

本当は降りてもいいんじゃないだろうか?降りられないというのは思い込みでは?

私は、ご存知の通り「パブリック・マン宣言」してゲームから完全に降りた。もともと降りていたように見えていたかもしれないが、この宣言以前はそれでも多少のカネへのこだわりがあった。それが完全に消え果てたのは、「もうこんなことを続けていてもバカバカしい。ここまで嫌なことをするくらいなら飢え死にでもした方がまだましだ」と心の底から思えたからだ。

海外で就職するというゲームの降り方もある。

『君は海外就職の時代?/それは誰も知らない』 - ゴムホース大學

『まぁ、海外就職は甘くもないんですけどね、でも日本でブラックに勤めるよりは金銭的にもキャリアを積むにもいい求人は結構ありますよ、いや現地採用ですけどね、新卒でも、ニートでも、一度くらい気軽な気持ちで覗いてみればいいじゃないですか、死ぬわけじゃないんだし』

なぜ人々は、社会通念が規定する「人生のレール」から外れることができないのか?

先日、ある経済雑誌の若い記者の方がこういうことを言っていた。

評価経済的な話には魅力を感じるんですけどね…。ただ、先輩記者に『それは単なる個人のライフスタイルの問題でしょ?実際には経済成長しなければ、高齢化社会に備える財源を作れないし、政府の累積債務問題も解決しないでしょ』と言われると頭を抱えてしまうんですよね…。

人々が従来の「サラリーマン=高度成長」的ゲームから降りて行くにつれて、日本が物質的に貧しくなり、不幸になっていくのではないか、という人々の恐怖感は根強い。その果てに人々がイメージするのは、フィリピンのスラムのような悲惨な風景なのだろう。(あくまでも、「イメージの中のスラム」であって、実際のスラムに住む人たちが不幸なのかどうかはまた別の問題だ→スラムの住民は本当に「不幸」なのか? - Togetter

連日、満員電車に揺られて出勤し、深夜まで残業して、疲労困憊する。こういう生活から降りたとたんに、フィリピンのスラムの人々のような世界に「堕する」と考えるも極端ではないか。現実の日本を見てみよう。社会的インフラはほぼ完璧。人々の教育水準は極めて高い。一般の人々の仕事に対する責任感は強い。私たちには、ブラック企業社畜としての生活と、スラムの自堕落な生活という両極端の中間に位置する、より均整の取れたライフスタイルが可能なのではないか?そこでは、仕事と余暇、モノと精神のほどよいバランスの中で、より高い次元の欲望を生き、より深い意味での幸福をかみしめつつ生活できるようになるのではないか?

これから10年で日本政府の財政も企業社会も行き詰まり、財政破綻と大量解雇がほぼ同時に起こるだろう。企業を追われたこれらの失業者の多くは、もう二度と安定した雇い主を見つけることはできない。大企業が大量に人員を雇用する時代の終わり。多くの「雇用」は永遠に失われたままになる。

少数の若者が多数の老人を支えることになり、年金は確実に破綻するだろう。公的医療保険も医療費の急増に対応しきれなくなり、自己負担が大幅に増大するだろう。

日本の未来は真っ暗のように見える。だが本当だろうか?

私たちは、たぶん間違った問いに対する答えを必死に見つけようとしているのだ。だが間違った問いに対する正しい答えは私たちを救ってくれない。私たちは、現実とつながりを持つ正しい問いを立てることから始めるべきではないのか?

雇用されることだけが働き方ではないはずだ。雇われない働き方はいままでもあったし、これから増えていかざるをえまい。カネを稼ぐことだけが唯一の働き方でもない。世の中にはカネを生まないが立派に人々の幸福を増進しているような活動がある。「大失業時代」にはこうした活動に従事する人たちが増える。その結果、生活必需品程度は物々交換に近い形で手に入るようになるだろう。人と人の絆が失われないかぎり、失業しても餓死する人は出ないはずだ。

従来の人生観(22歳で大学卒業、60歳まで労働、老後は遊んで暮らす)にこだわっていたら、超高齢化社会には対処不可能だろう。年金という考え方も絶望的に古くさい。人々がバラバラの原子的個人で、相互扶助が全くなく、政府が全面的に年金と医療保険で支えるという前提を疑ってみるべきではないか?

立てるべき問いは「私たちは、現在の資源と技術的基盤を使って、どうやって自分たちの物質的必要を満たし、かつ互いを幸せにすることができるか」だ。雇用だの年金だといった話は、すべて二次的なものだ。従来のやり方とは違う経路でわれわれが幸せになれるのであれば、古いやり方は捨てても一向に構わないはずだ。

政府自体が、21世紀の評価経済的な枠組みにどうしても入って来られない時代遅れの代物という印象が拭えない。20世紀的な福祉国家の歴史は驚くほど浅い。それが永遠に続くと考えるのは思慮不足ではないか。

私は、イケダハヤトさんの
(本の紹介)「地域社会圏主義」―これからの「住まい」を描き出した一冊 | ikedahayato.blog
というエントリーを読んでから、「シェアタウン」という語感が頭から離れなくなってしまった。ハヤトさんがこのエントリーで紹介している

地域社会圏主義

地域社会圏主義

のアマゾン・カスタマーレビューが秀逸なので、一部を引用したい。

山本理顕さんの『住居論』の時から変わらない、従来のnLDKという日本の住宅の基本ユニットへの違和感がこの「地域社会圏」という発想につながっている。本書によれば、新しい住居の形を考える時、それはもうひと家族におさまる形ではない。代わりに、500人程度の住人をひとつの単位として生きる大きなコミュニティを想定し、各「イエ」が「見世」と「寝間」によって構成されるモデルを提案する。

「見世」は外に向かってガラス張りで、「寝間」はプライバシーの高い場所。借り方は自由で、見世部分を多く借りて文字通りお店に使ってもいいし、事務所やアトリエに使ってもいい。おばあちゃんがうたた寝する縁側のような場所でもいいし、子どもが遊んでもいい。「寝間」部分をたくさん借りて、プライバシーの高い従来の家のような「イエ」にしてもいい。専有と共有との関係をすべて見直し、エネルギー、交通、介護、看護、福祉、地域経済、「一住宅=一家族」を前提として成り立っていた関係をすべて見直す。その見直された関係こそが、本書が提唱する「地域社会圏」だ。

素晴らしいアイディアだが、このままでは、手垢のついた政治的スローガン「地域コミュニティの再生」の焼き直しで終わってしまいそうだ。インターネットと組み合わせないかぎりこうした試みはうまく行かない気がする。

私は以前、都内のゲストハウス(業者が運営するシェアハウス)に3年間暮らしていたときがある。トラブルが皆無だったとは言わないが、全般的に、非常に楽しい生活を送ることができた。それは、住人の志向性がある程度揃っていたからだと思う。これは住人が同質だったという意味ではない。実際には、外国人もいたし、実に多様な顔ぶれだった。だが、「シェアして暮らすのは楽しいじゃないか」というゆるやかな同意はあった。

@pha さんは、ギークハウスという「コンセプト・シェアハウス」の提唱者である。「インターネットさえあれば、それでいい」というキャッチフレーズが表すようにインターネットなしでは生きて行けない人たちが集まって暮らしている。それが一つの「揃った志向性」だ。だから共同生活がうまくいく。

そこに住む住人たちは「他人以上・友達以下」の関係でゆるやかにつながっている。かつての村社会(あるいは現在の企業社会)のような「同質圧力に耐えられなければ村八分」などという息苦しい世界とは根本的に違う。これに一番似ているのは Twitter 等のソーシャルメディアが形成する「クラスター」であろう。

むしろこういった方が正しいのかもしれない。これからのシェアハウス(そしてシェアタウン)はソーシャルメディアクラスターが具現化したものになるのではないか。20世紀のように、「○○駅徒歩××分・△平米・家賃□万円」という機械的な条件だけで、隣人たちとの関係を一切考慮することなく住む場所を決めていた頃を、心の健康を無視した野蛮な時代として思い返すようになるのではないか。

真の意味で心のつながった人たちが作る新地域コミュニティ=シェアタウンに多くの人々が住むようになれば、社会保障に対する政府の役割は大きく変化する。砂のようにバラバラの国民一人一人の面倒を一から十まで政府が面倒をみる必要は薄れて行くだろう。

お花畑の夢物語のように聞こえるだろうか?

だが、政府と大企業が同時に破綻した世界で、それらに再び頼って生きていこうとするのもまた、はかない夢物語かもしれない。近い将来、政府や大企業は力が衰え、全員分の社会保障や雇用を確保することはできなくなるだろう。ならば人々が自分の力で自分の生活を守ろうとするのはむしろ自然なことではないだろうか。幸いなことに、いまや、こういう古い勢力に頼らなくても生きていける技術的基盤が準備されつつあるのだ。

先進国ではこれから20世紀型の経済の息の根が止まる。「いい会社に就職して一生安泰」的世界の完全なる終焉。このままでは、数百万人・数千万人が新しい経済への準備もないまま街に放り出されてしまうだろう。自分でゲームを降りなくても、古いゲーム自体が終わってしまう日が近々やってくる。いろいろ混乱はあるだろうが、人々は21世紀型の経済に慣れていくしかない。だが、21世紀型の経済=評価経済は、見かけよりずっとよいものだ。それは、工業経済で失われた人間らしさを取り戻すための経済だから。

何でも夜明け前が一番暗いものなのだ。

P.S.
古いゲームから降りて、人間らしさを取り戻した女性たちの記録としては、
Nadeshiko Voice
がおすすめ。男性読者にも参考になることが多いはずだ。自分が心底好きなことをやって生きる人たちの姿は輝いている。