モノを所有する時代の終わり - 所有価値から使用価値へ

近代経済学の枠組みでは、効用(人々の喜びの増加または苦しみの減少)をもたらすものを財と呼ぶ。財はモノとサービスに分けられる。近代経済学が誕生したときには、モノが絶対的に不足していたので、財はほぼモノを意味していた。その後、サービスに対する考察を追加したのであろう。

だが、今日、生産力の増強につれ、社会にモノがあふれて、財の重心がますますサービスに移りつつある。よくよく考えてみるとモノとサービスは信じられているほど対立的なものではないのだ。その部分を今日はじっくり解説したい。

人々は財から効用を引き出すことができる。財のこういう機能を価値と呼ぶ。財の価値は人によって違う。たとえば、イチゴが嫌いなひとにとってイチゴの価値は低い。だがイチゴが好きなひとにとって同じイチゴは高い価値をもつだろう。

モノ・サービスという二分法とは別に、財を次のような2種類に分けることもできる。

  1. 人々の消費に供される消費財
  2. 消費財を生産する過程で使用される生産財

である。生産財は、企業にとっては重要なものだが、消費財を生産する過程での中間投入物にすぎないため、今日の考察から省く。私たちの幸福に直接関係するのは、いつでも消費財である。

まずモノの価値の分析を行い、その後、サービスの分析に入る。

モノの価値

モノの価値は2つに分類される。

  1. 所有価値
  2. 使用価値

1. 所有価値
これはモノを所有することから直接得られる価値である。
所有価値はさらに次の2つに分けられる。

(1)安定的な使用価値の提供を確保する機能
従来、人々が家を所有する理由の一つとして、「よい家を将来に渡って借りられるかわからないから」というものがあった。「住む」というのは家が提供する使用価値である。家を所有することによって、将来に渡って「住む」という使用価値を享受することを保障できる。

(2)社会的ステータスを提供する機能
所有物は、人々に対して誇示することができる。立派な家や美しい高級車は、所有者の経済力を暗示し、人々に畏怖の念を呼び起こす。自分の社会的地位を誇示する機会を与える。皮肉な言い方をすれば、見栄を張ることを可能にする価値とも言えるだろう。これは(1)安定的な使用価値の提供を確保する機能から派生した機能だと思われる。所有は、将来に渡る安定的な使用価値の提供を示唆し、人々はその豊かさに憧れを抱くのだ。

2.使用価値
使用価値とは、使用者が何らかの体験(experience)を引き出しうるような価値をいう。その体験を通じて人々は、マズローのいう階層的欲求のいずれかを満たして行く。

家は、「快適に生活する」という体験を提供する。
これが、家の使用価値である。

車は、「快適に移動する」という体験を提供する。
これが、車の使用価値である。

食べ物は、満腹感という体験を提供する。
これが、食べ物の使用価値である。

マッサージ機械は、マッサージという体験を提供する。
これが、マッサージ機械の使用価値である。

薬は、病気の治癒という体験を提供する。
これが、薬の使用価値である。

本は、読書を通じた種々の体験(学習・感動)を提供する。
これが、本の使用価値である。

デジタル機器(PC・スマートフォンタブレット等)も当然ながら使用価値を持つ。デジタル機器は、デジタル情報を再生する機械である。デジタル機器の特殊な点は、それがデジタル情報によってさまざまな機能を果たしうる汎用の体験提供機械である点である。

デジタル情報はコストゼロで複製が行える。これは、同じ体験を多くの人たちの間で簡単に共有することができることを意味している。デジタル機器がもたらす体験は実に多様である。そこで再生されるデジタル情報次第である。これらの多様な体験が安価に手に入るという性質がデジタル機器の革命性である。

サービスの価値

サービスは、人間によって提供される使用価値である。サービスは人間によって提供され、人間を所有することは不可能であるので、所有価値は考える必要がない。

マッサージ師は、マッサージという体験を提供する。
これが、マッサージ師のサービスの使用価値である。

教師は、学習という体験を提供する。
これが、教師のサービスの使用価値である。

弁護士は、法律的問題の解決という体験を提供する。
これが、弁護士のサービスの使用価値である。

マッサージ機械とマッサージ師の違いについて考えてみよう。マッサージという体験を享受する側からすれば、マッサージ機械とマッサージ師は同じような(代替可能)なものである。マッサージ機械は、マッサージという体験を提供することのみを目的に存在しているために、「マッサージ体験は、マッサージ機械の使用価値」と呼ぶことができる。

一方で、マッサージ師は人間であり、マッサージ体験を提供するためのみに存在しているわけではない。たまたま、ある人がマッサージ師という役割を演じるときに、提供している体験にすぎない。

だから、「マッサージ体験の提供はマッサージ師の使用価値」と述べるのは座りが悪い。まるでマッサージ師を単機能の機械のように表現しているからだ。「マッサージ体験の提供は、マッサージ師のサービスの使用価値」と呼ばなければならない。

薄れゆく所有価値

所有することの意義(所有価値)は、第一に使用価値を将来に渡って安定確保することにある、と述べた。だが、これはモノが少ない貧しい時代の論理だったのかもしれない。モノがあふれかえる現代においては、使用価値を確保するのは所有という形を取らなくても容易になりつつある。住居を賃借することはますます容易になりつつあるし、車はレンタカーで十分だ。最近は、ブランド品のバッグやアクセサリーを貸し出す商売さえあるらしい。

所有価値には、社会ステータスを誇示するという機能もあるが、これは使用価値の安定確保機能から派生したものにすぎなかった。使用価値の安定確保が容易になりつつある今日、この社会的ステータスの誇示機能も弱くなってきている。

モノにおいて、

価値 = 所有価値 + 使用価値

なのだが、所有価値が徐々にゼロに近づきつつあるのだ。一方でサービスは所有が不可能なので、

価値 = 使用価値

であった。モノとサービスの違いは所有価値の有無だったのだが、所有価値がゼロに漸近するにつれ、経済的価値=財としてのモノとサービスの境界が薄れつつある。モノもサービスも、使用者に体験を提供する(使用価値)のが主な役割になりつつある。

使用価値の価格は?

近代経済学の考え方に従えば、価格は、一定の条件の下で、市場において需要と供給をマッチさせるように決定される。供給曲線と需要曲線があって、その交点で価格が決まる、等々という話になるのだが、詳細は割愛する(参考文献を参照のこと)。

基本的には、希少な財ほど高い価格がつく。

デジタル機器が提供する体験は、その元になるデジタル情報をコストゼロで複製することによって、大量に提供できるため、希少性が全くない。体験を新たに提供する上での追加的な費用(=限界費用)はゼロであり、価格もゼロになる。言い方を変えると、デジタル機器が提供する種々の使用価値は無料で享受できることが多い。これが私が『「情報が売る」時代の終焉』で主張したことだ。

逆にいえば、デジタル機器の提供する体験でも、希少性を人為的に作り出すことができれば、プラスの価格がつくかもしれない。だが、これは困難な道だ。技術的にデジタル情報の複製にはコストが掛からないので、この複製を防ぐのには多大の労力が必要だ。デジタル情報の提供者は、法律(契約・著作権・特許等)や技術(複製防止技術・DRM等)をフル活用してこの目標を達成しようと必死の努力を続けているが、それが実る可能性は薄いだろう。

モノの使用価値は、この安価なデジタル機器の使用価値との激しい競争に直面することになる。そして様々な前線でモノはデジタル機器との戦いに破れつつある。たとえば、高級車の代わりに、グランツーリスモのようなコンピューターゲームが売れるという現象がそれだ。高級車もコンピューターゲームも同様の体験を提供するが、コンピューターゲームのほうが価格が圧倒的に安いからだ。

人間が提供するサービスの場合はどうか?サービスでは、サービスを提供する人間が一定の時間、何らかの労力を費やさなければならない。限界費用はプラス(ゼロにはならない)なので、必ずプラスの価格がつく。だが、コモディティ化したサービスの場合、希少性があまりないので、限界費用は低く、価格も低い傾向がある。誰でもできるコンビニやファーストフード店でのバイトを思い浮かべればいい。

サービスの場合は、それがユニークなものであるほど、差別化が可能になり、希少性が高まるので、高価で売れる可能性がある。たくさんは売れないかもしれないが、ごく少数の極めて強い需要を惹き付ける。インターネットの強力なマッチング機能がこれを可能にした。ロングテールと呼ばれる現象だ。SNS におけるクラスター化やたこ壷化も、やはりインターネットのマッチング機能から派生する本質的に同じ現象である。

ユニークなサービスを提供するには、どうすればいいか?それは自分自身の心の深い部分とつながる活動を行えばいい。「本当の・心のこもった・真剣な」活動(authenticity)だ。遺伝子と生活史の違いから、この世に全く同じ人間は一人としていない。だから、自分自身の衝動に素直に行動さえすれば、誰もがユニークな活動を行うことができる。

そのユニークな活動は、他の人たちに広く知られなければならない。それが需要者によって見いだされる必要条件だ。そのためには、自分の活動をインターネット上で有効に表現する必要がある。そして、関心を惹き付け、評判を蓄積していく必要がある。こうして評価経済論につながって行くのである。

参考文献

カネを媒介としない新しい経済ー21世紀の評価経済論 - elm200 のノマドで行こう!
「情報を売る」時代の終焉 - elm200 のノマドで行こう!
評価経済を可能にしたもの - 「評判銀行」としてのインターネット - elm200 のノマドで行こう!

Out of Our Minds: Learning to be Creative

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ロビンソン卿による、創造性の教育学。工業をモデルにした教育が危険なほど時代遅れになりつつある。個人の充実した人生のためにも、21世紀の経済のニーズに応えるためにも、人間のきわめて多種多様な才能を伸ばす教育を導入しなければならないと説く。「ユニークなサービス」を提供するための前提条件だ。

入門 経済学

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私は、これで経済学の基礎を学んだ。著者の伊藤元重氏は、私の大学(東大経済学部)のゼミの指導教官である。近代経済学の考え方を難しい数式抜きでざっくり理解したい方におすすめ。やや古い本だけど、基礎は変わってはいないはずだ。

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

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評価経済という概念の原典。ただ私はこだわりがあって未読である。ネットに溢れる書評を見るかぎり、だいたい私が考えているのと同じようなことを言っているのだろうと推測するが、細かい違いが気になって、自分の頭での概念構築に支障を来すのではないかと恐れを抱いてしまう。それでも、読むべきだという思われる方は、私のアマゾンほしい物リストから、私に送ってください。読んでみます…。