パブリック・マンはつらいよ

今日は私は鎌倉・江ノ島方面に遊びに来ている。私は横浜市磯子区に住んでいるので、鎌倉は目と鼻の先だ。ここに来るのは簡単だ。鎌倉には古い寺院・神社、美術館やしゃれたカフェやお店がたくさんあって、遊びにくる場所としてはなかなか楽しい。

私は今年の1月中旬に東南アジアから戻って来てから、この横浜の家に引きこもることを選んだ。この3ヶ月で電車に乗るのは厳密に4回目のことだ。ときどき家の周りを散歩して近所のファミレスやマクドナルドへ行くことはあったが、それ以外はほとんど家にいて、仕事をしたり遊んだりした。だがさすがにそんな生活にも飽きて来た(笑)。まあ、当たり前だ。

私は「パブリック・マン宣言」によって、自分の財務状況を毎月インターネット上で公開することにしている。消費活動も必要十分な粒度で報告していくつもりである。これはなかなかの精神的プレッシャーである。自分のカネを使うのに、他者の許可は要らないとしても、私の消費活動を他者に報告するときに、異論の多い(controversial)消費はなかなかやりにくい。

たとえば私が性風俗店に行ったらどうだろうか?麻薬を買ったら?幸い、私はいま特に性風俗店に関心はないし、麻薬に手を出すほど精神的に追いつめられてもいない。ただ、鎌倉に遊びに来て、普段よりちょっとよい店に来て普段よりちょっと余分にカネを使うだけでも、批判を受けるのじゃないか、という考えが頭を掠めなくもない。

そもそもこの日本は、41歳の男が昼間、街をフラフラしているだけでほとんど軽犯罪法違反のような扱いを受ける国なのだ(笑)。私のやっていることはいろいろぶっ飛びすぎていて、批判したくなる人たちがいるのは十分に理解できる。むしろ挑発(provoke)するためにやっているところもあったりするけれども(笑)。

私の消費活動の90%はそのまま公開しても何の問題もない。残り10%も犯罪に関わったり倫理的に問題になることはないが、私の個人的な理由でやや恥ずかしく感じるようなものだ。ごく一部は非公開にするかもしれない。それくらいの秘密箇所(private parts)があるほうが人間らしいだろう。

資本主義社会においては、人間は生産者と消費者としての全く異なる二面性を身につけることになった。まるで二重人格のジギルとハイドのように。生産者としてありとあらゆる辛苦に耐えて、いったんカネを得れば、今度は消費者しては何の制約を受けることもなく、わがままな王様のように振る舞うことができる。人々がカネを希求するのは、消費者としての「自由」を得るためだった。この世のどんなものも買える。どんな場所に行ってどんなことをすることもできる。それが消費者としての自由だ。

だが、この人格分裂は多くの心理的・社会的問題を引き起こした。私たちは本当にジェットコースターのように生産者と消費者という2つの極端な人格を行きつ戻りつしなければならないのか。私たちは生産者としては、公的領域で非人格的な大組織の部品として働き、消費者としては、私的領域で小さな放埒を得る。いずれにしろ、そこには社会に生きる他の人々との人間的なつながりはない。

近代人のこの二重人格性は、映画「ファイト・クラブ」の主人公の姿を通じて見事に描き出されている。大手の自動車会社に勤務する主人公は、社会的意義が感じられない仕事に疲弊しながらも、自宅の部屋はブランド品の家具に満たされている。不眠症に陥った彼は社会とのつながりを求めて、自分の立場を偽りつつアルコール中毒などの自助グループを訪れ、しばしの心の平安を得る。

私たちは「とりあえずカネを稼いで使い道は後で考える」という生き方の倒錯性を自覚すべきじゃないだろうか。カネは、幻にすぎない。実在するのは、我々人間であり、自然環境である。他者や環境とのよりよい関係を作り出すこと。それが生産と消費の本質なのだ。

たぶん私たちは、カネを稼ぐ(生産する)ときのみならず、カネを使う(消費する)ときにも、自分たちが社会を構成する一部であり一定の責任を負っていることを自覚すべきなのだ。「スペンド・シフト」は消費者の社会的責任を考える人たちが米国では増えてきていると主張する。特に2008年の金融危機が、野方図な消費のもたらす虚しさを多くの人たちに教えたのだと。

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―

私は、厄介な面を自覚しつつも、今後も私がどういう風にカネを使っていったのか皆さんに報告し続けるつもりだ。批判には甘んじる。一方で、私の消費活動を知っていただくことが私について理解していただく早道であるとも感じる。「なるほどこんなことにカネを使っているのね」と親しみを持ってもらえることもあるかもしれない。

パブリック・マンは楽じゃない。でも多くの人に私の生き方を理解してもらえるという見返りもある。この生活実験を通じて今後も新しい社会のあり方、人と人とつながりについて考えていきたい。