書評「漂流するトルコ」

まったく凄まじい本があったものだと思う。ここまで引き込まれるようにして一気に読んだ本は本当に久しぶりだ。少年時代を思い出す。

漂流するトルコ―続「トルコのもう一つの顔」

漂流するトルコ―続「トルコのもう一つの顔」

著者、小島剛一氏は現在フランス在住。どうやら大学の先生らしい。専門は言語学言語学者なのだが、そんじょそこらの学者とはわけが違う。日英仏語とトルコ語の4カ国語に関しては、母国語状態。一説によると100カ国語くらい話せるらしい。 本人も数え切れないほど多くの言語を話すという(著者の小島剛一氏から問題点のご指摘をいただき修正した。脚注をごらんください)。

小島氏は若き日に旅行で訪れたトルコの人々にすっかり魅せられて、トルコ語の研究を始める。次第に、トルコには多数の少数民族と彼らの話す諸言語が存在することに気づく。ところが当時のトルコは「トルコは単一民族国家であり、トルコ語以外の言語は存在しない」というとんでもない建前を取っていた。少数民族が自分の母国語母言語(脚注2)を話すことはそれ自体が「犯罪」だったのだ。少数民族の言語を研究することは当然大きなリスクを伴っていた。小島氏は結局、2回もトルコ政府から国外退去処分を受けることになる。

小島氏は、少数民族の庶民たちの人間くささに惚れ込んで、彼らに限りない愛情を注ぐ一方で、組織の論理で動き人間的な誠実さのない各国の外交官や諜報員たちの脅しには屈しない反骨精神を持つ。一方で、少数民族出身でも、自惚れて思い上がった人間に対しては、容赦ない批判が浴びせかける。出自や地位や経済力ではなく、生身の人間そのものと向き合おうという真摯な姿勢が感じられる。

100カ国語100の言語を話す天才言語学者兼強靭な体力を誇るバックパッカーによる各国政府を巻き込んだ大冒険」という風の一流のサスペンスとしても読める。各国の外交官や諜報員たちの隠れた意図を状況証拠から推理する様はまるでシャーロックホームズのようである。

この本はとにかく面白くて私は思い入れがありすぎて、語り始めるときりがないのだが、ここではトルコの少数民族問題について考えてみたい。

クルド人とよばれる民族集団は、トルコ・アルメニア(脚注2)・シリア・イラク・イランにまたがって居住し、各国で少数民族扱いされている。実はこの人たちは、各方言の違いが大きすぎてほかの国にすむクルド人たちとは話が通じないらしい。それどころがトルコ国内でさえもクルド諸語の違いは大きく言葉が互いに通じない。

クルド人のほかにもトルコには、アラブ人、ラズ人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ザザ人等々、無数の少数民族が住んでいる。しかも、自発的にまたは強制的に村単位で人々がさまざまな場所に移動して、こうした各少数民族はトルコの全体にパッチワーク状に散らばって住んでいる。私はこういう実態については知らなかった。

こういうパッチワーク状の民族分布はバルカン半島でも観察される。それは、バルカン半島アナトリア半島地方(脚注2)がかつてオスマン帝国によって支配されていたことと無縁ではない。オスマン帝国は、税を納めることと引きかえに、地域コミュニティの自治(宗教的寛容)を認めていた。それにゆえに、多くの民族が混じり合うことなく、平和に共存していたのであろう。

オスマン帝国は19世紀に急速に衰え、20世紀に滅びる。1923年にトルコは共和制を宣言し、近代国家への道のりが始まる。トルコは国民統合を焦っていたのだろう。それが「トルコは単一民族国家でトルコ語しかない」という愚かな建前につながった。国民という「虚構」を作り出そうと焦りすぎたのである。少数民族を統合できない場合に、失敗国家の烙印を押されるのを恐れた。

中世においては、世界は小さな多数の自律的なコミュニティによって覆われていて、中央集権的権力による人々の直接支配は行われていなかった。しかし近代に入り中央集権化が進み国民という「虚構」に各コミュニティは統合された。

今日の民族紛争のほとんどは、少数民族が混住し、単純な国境線を引くことではどうやっても各民族を引き離すことができない地域で起こっている。「国民から成る主権国家」を成立させるのがそもそも無理筋な地域だ。根本的な解決方法はただ一つ…主権国家を作ること自体を断念することだ。

多数の自律的コミュニティの平和共存から成る「中世的秩序」に戻ることは、世界の大多数の地域において、大いになる希望と言えるだろう。ただし、最新技術によって支持される多様性を尊重する開放的な「新しい中世」でなければならない。それがどうやって成立しうるかの現実的条件を考える必要がある。

中世における地縁による共同体に代わり、新中世では志向性による共同体(あるいはアソシエーション)が世界の基本的な構成要素になるのではないか。イメージとしては、Twitterクラスターがそのまま共同体として立ち現れるイメージである。共同体が外縁で緩く重なり合いながら世界全体を覆う。

一言でいえば、大きすぎる組織は常に非人間的ということなのだ。それは国家であっても同じことだ。人間と文化、民族そして国家の(しばしば不幸な)関係について関心を抱かずにはいられない人たちにおすすめの一冊である。


(脚注)
著者の小島剛一氏から、丁重な電子メールをいただいた。

「日英仏語とトルコ語の4カ国語に関しては、母国語状態。一説によると100カ国語くらい話せるらしい」とありますが、私は「○ヵ国語」という数え方と「母国語」という言い廻しは無意味だから廃止すべきだと考えております。言語の数と国家の数も、語域の境界と国境も、相互に無関係ですから。90ページのコラム「何ヶ国語ぐらい話せますか」を再読していただければ幸いです。

この点、まったく指摘の通りだと思ったので、不明を恥じつつ、謹んで表現を訂正させていただいた。

小島氏は、主権国家が、支配する領域で話される言語の優劣を勝手に決めてしまうという「言語の政治性」と闘い、言語を日常生活で使う人たちの手元に取り戻そうと半生を捧げた方だ。いくら「○ヵ国語が話せます」という表現が慣用的に受容されていると言って(むしろそれだからこそ)小島氏の人となりを説明する際に用いるのはいかにも不適当であった。

正直、最初書いているときにも、「○ヵ国語」はちょっとまずいな、とちらっと頭を掠めたのだが、不注意にも表現をそのまま残してしまった。

(脚注2)
小島剛一氏の指摘によって訂正・加筆