英語は人類最後の世界共通語になるだろう

インターネットは実質的に知的活動の国境を撤去した。中国のような厳しいネット統制のある国でさえ、99 % の情報は国境を越えて自由に行き来している。

日本人のあなたが日本語でブログを書けば世界中の人たちがそれを読むことができる。・・・読者が日本語さえ理解できれば。

つまり言語だけが最後の障壁となっているのだ。日本人たちがどんなに高度な議論を日本語で行っても、日本人以外の人たちに注目されることはほとんどないだろう。日本語で言論活動をするかぎり、国境のないインターネットの中で、門を閉ざし鎖国しているようなものだ。

それが私には滑稽でもあり悲しくも思える。もちろん、この事情は日本語に限らず、すべてのマイナー言語での議論に当てはまるが。

現在母国語としての話者が一番多いのは、中国語(北京語)である。次は英語。

しかし話者が多いだけでは世界中の人たちに使われる言語にはならない。その言語が世界中に普及するか否かについては、その言語を話す人たちの経済力・政治力・軍事力が大きな影響を与える。何よりも、その言語を話す人々が世界の人々の尊敬を集めるだけの価値の高い言論活動を行っているか、という要素が大きい。つまり科学・文学・芸術などの点に世界の人々に貢献しているか、という点である。

そう考えると、中国語の言論空間で世界的普遍性をもつ議論は当分(おそらく永遠に)行われないだろう。

その点、英語は、世界中のあらゆる人種・民族・宗教を信じる人たちによって使われている。英語の文献はこの多様な人たちの発言を直接記録していくのだ。

英米人は、ルールを作ることに圧倒的な能力を有している。それは彼らの文化的伝統に根ざしている。だからこそ、世界機関はほぼすべての英米の主導で作られた。現在も会計原則等の国際基準を作っている。

世界的普遍性をもつ議論はこれから先も永遠に英語で行われていくだろう。この議論の輪に加われるか、加われないか・・・。この差がこれからどんどん拡大していく。

世界の片隅でしゃべったことが追加的コストゼロで全世界に伝わる技術基盤が確立した今日にあって、世界の人たちに知られるべき価値のある議論が、マイナーな言語で発話されているがゆえに認知されないというのは、途方もない損失であるように思えてならない。

次の、あるいは次の次の世代には、世界に広める価値のある言論活動を行える人たちは、母国語と並んで、世界共通語(おそらくは英語)で同等以上の表現できる能力を備えていて欲しい。

人類最後の世界共通語としての英語

大人な言い方をすれば「とりあえず英語は当分は事実上の世界共通語でしょう。しかしそのあと他の言語がその地位を引き継ぐかもしれません」ということになるのだろう。

しかし私は偏見と独断が大好きなのであえて言おう。「英語は人類最後の共通語である」と。

古代から、ギリシャ語・ラテン語・古代中国語等々、ある地域の学問や通商のために使われる地域的共通語は数多く栄え、廃れていった。

これらの地域共通語は、広大な領域とはいえ、あくまでの地球の一部をカバーしたのみであった。

だが、英語は現在、地球上のすべての地域をカバーする共通語になっている。これは歴史上存在したどんな共通語とも異なる特徴である。そしてこの特徴はインターネットの登場により、不可逆的なものとなった。

私は英語が決して嫌いではないが、単に好きともいえず、かなり複雑な気持ちを持っていることだけは、最後に書き添えておく。ただし、英語を受け容れることに関して、もう選択の余地がなくなっていることだけは、わかってほしい。

(今回のエントリは私のつぶやきから再構成しました)

追記

この前も書いたがEnglish as a Global Languageに英語がどのようにして現在の地位を築いたのかについて詳細な解説がある。それを見ると世界共通語の条件がどのようなものであるか理解しやすいだろう。

参考エントリ:
英語は誰の所有物か? - Rails で行こう!