現実と格闘する

例のボランティアグループで外国人の子供たちに日本語(国語)を教えた。子供たちは、一人ひとりはかわいいのだが、集団になるとなかなか凶暴である。昨日は私はもたもたしているうちに、子供たちに舐められてしまい、なかなか言うことを聞いてくれないで難渋した。学校の先生が、教室では非常に厳しく子供に接する理由がわかった。子供は、大人の事情を理解しないので、ある程度、決まりを作って強制的に守らせるようにしないと教室の秩序が維持できないのだ。

もちろん、これは大人側の落ち度でもあるとは思う。子供一人一人にあった教材で一人一人のペースで学習を進めさせることができれば、子供は自発的に楽しく学ぶだろう。だが、それを実現するためのリソースがいままで存在しなかった。大人一人に対して子供数十人という比率では、個別の指導は難しい。

将来の方向性は、「一斉授業的な部分は、ビデオを見て家で済まし、宿題的な作業は、教室でやる」という従来の授業を逆転させた形であろう。カーンアカデミーが目指す方向である。

ただ日本の学校は極めて保守的でこういう方向で IT を積極的に活用していくのは近い将来に関しては起こらない気がする。日本のボランティア活動の多くは、高齢者によって支えられており、彼らの IT アレルギーも著しい。ボランティア活動にとって、ソーシャルメディアは非常に相性がいいにもかかわらず、活用されていないのはまことに残念としかいいようがない。

私が参加しているボランティア活動には、いくつもの問題点がある。リソースが足りないのでボランティアにかかる負担が重くなり、それゆえにボランティアが定着しないという悪循環がある。日本の組織固有の問題として、ロジスティクス兵站)を重視しないという問題もある。現場の創意工夫に頼りすぎていて、組織としてボランティアに負担がかかりすぎないようなリソース配分を行おうという意思が乏しい。

傍観者の立場から問題を指摘するのは簡単だが、どうやって解決できるのか?これはなかなかの難問だ。いくつかの要素が互いにかみ合っているという構造的な問題であるからだ。これらの問題を本気で解決しようとしたら、本格的なコミットメントが必要になる。ボランティア団体のリーダーは約30年間現場で奮闘してきたひとだ。そういう人たちと同等の覚悟が持てるのか。

私にはやらなければならないことがたくさんあり、正直、このボランティア活動に100%の時間を割くことはできない。だから、部分的にできるところを真剣にやるしかないのかもしれない。ただ、以前の私なら、この構造的な問題を見ただけで、尻尾を巻いて逃げ出していた。今後の私は、現場のやり方をいったん受け入れたうえで、そこで踏ん張りながら、現実にそのやり方を「部分的に」改善することを試みようと思う。

私は、いままで現実を傍観しつつ批判する「評論家」として生きてきた。私のネット上での評判も評論家としての酒井英禎に対して向けられていたんじゃないかと思う。だが、ずっと昔から、単なる「評論家」として生きるのは、人としてずるいと思っていた。退屈な人生だと思った。生身の身体を持って生きているんだから、この現実と格闘し、少しでも改善してナンボの人生じゃないのか。「評論家」としての対極にある「実践家」としての私の人生は、評論ほど鮮やかなものではないかもしれない。ごく平凡なもので、人々の注目は集めないかもしれない。ただ、私は人の注目を浴びつつ空虚な人生を歩むより、誰にも見られなくても自分が納得する実直な人生を歩みたい。

ただ、私のやり方は、現実を盲目的にすべて受け入れるということではない。批判精神を持たずにはいられないのが私の気質である。現実をいったん受け入れるも、強烈な私の批判精神をそれに対抗させ、火花を散らしつつ、現実を動かしていくこと。非常に困難だが、それが私がこの世で為すべき本当の仕事なのだろう。