マルクス再発見

極東ブログ id:finalvent 氏による書評から、池田先生の文章を又引用。

資本主義とは、現代の企業理論でも、資本家が物的資本の所有権をテコにして労働者を支配するシステムであり、その有効性は人的資本や知的労働の重要な情報産業では低下する。だから、資本が経済システムの中心であるという意味での資本主義の時代は、終わりつつあるのかもしれない。この意味でも、マルクスは正しかったわけだ。

そうだったのか。マルクスはこう読むべきだったのか。資本主義社会という私たちがいま住んでいる世界について、その本質を執拗に追いかけた人だからこそ、数多くの思想家たちに引用され続けたのか。

マルクスは自由の国を、労働が生活手段ではなく目的となるような世界とし、そこでは生産力は増大して無限の富が実現すると考えた(『ゴータ綱領批判』)。これは彼のユートピア的な側面を示すものとしてよく嘲笑されるが、サイバースペースでは、人々がOSSを開発するのもブログを書くのも生活手段ではないだろう。労働が目的になれば、マルクスも予言したように貨幣は必要なくなる。またデジタル情報に稀少性はないから、「協同的な富が過剰に湧き出る」ので、財産権には意味がなくなる。

歴史的な理由で、いまだに情報は物理的なメディアと組み合わせて売られることが多い。映画 DVD 然り、音楽 CD 然り、書籍然り。しかし情報は自由を欲している。情報がやがて物理的な束縛を逃れて、自由にサイバースペースを流動するときが来るとき、まさに「協同的な富が過剰に湧き出る」予感がする。

マルクスを素直に解釈すれば、やがて貨幣もなくなるということになる。貨幣もなくなる?社会主義陣営が倒れて20年近く経過しようとしているのに、何を寝ぼけたことを、という声が聞こえる。しかし、ここは頭を柔軟にして、あらゆる可能性を考えておいたほうがいいのかもしれない。現実に貨幣はなくなりはしないものの、未来経済の付加価値の中心である知的生産において資本の役割が低下すれば、それは貨幣の役割の減少低下も意味するのかもしれない。(正直、ここまで想像するのは相当勇気が要るけど)

社会主義者たちが夢見ていたはずの「自由の国」が、彼らの政治的組織が崩壊してまもなく、サイバースペースという形で実現されようとしているのなら、歴史の皮肉というべきか。