中国に飲み込まれていく日本

実は、インドネシア・中国をまわる旅行に出ていました。昨日、日本に帰ってきたところです。インドネシアについても、いろいろ思うところはあったのですが、これについては別の機会に述べるとして、ここでは、いま現在の中国と日本の関係について考えてみたいと思います。

中国は約1週間程度滞在しました。香港・マカオ深セン・南昌・上海の5都市を足早に訪れました。特に感慨深かったのは、深センです。

深センは、香港に隣接し、1980 年に中国の初の経済特区として指定された都市です。経済特区の指定以前は、寒村にすぎなかった地域が、いまや人口 846.43 万人、一人当たり GDP 16,430 米ドル(Wikipediaによる)という堂々たる大都市へわずか 30 年足らずの期間で成長しました。(この一人当たり GDP は日本の約半分に相当します)

実は、深センを訪れるのは、これで3回目です。

初めて訪れたのは、1990年。大学2年生のときでした。あの時も、今回とおなじく、香港中心部から国境の町、羅湖まで電車で行き、そこから、国境を歩いて渡って、深センに入りました。国境を越えたところには、数本高いビルが立っているだけで、他はほとんど何もなかったような記憶があります。道路も半分くらいは未舗装でした。新しい建物がいたるところで建設されていましたが、ブルトーザーやパワーショベルのような重機はどこにもなく、無数の労働者たちが、手押し車で土を運んでいました。道端にムシロを敷いて、毛沢東の小さな肖像画を売っているおばさんがいました。いくらだと聞くと10元だと答えたので、私はそのまま言い値で買いました。私は、もちろんボラれていたのです。10元(=130円)は、当時は平均的労働者の日給にも相当する金額だったでしょう。そのおばさんの満面の笑みが忘れられません。わずかにある高いビルの最上階にある高級そうなレストランに入って、メニューからでたらめに一品を注文してみました。時間帯もあったのでしょうが、大きなレストランに客は私しかいませんでした。若いウェートレスたちが数人、私の方を指差しながら、「ヤップンナー・ヤップンナー」と言いながら、くすくす笑っているのが見えました。広東語で「日本人」と言っていたのでしょうか?とにかく、当時、深センを訪れる日本人は珍しかったにちがいありません。窓の外を見下ろすと、何もない深センの街の向こう側に、香港と深センの境界を画す鉄条網が地平線のかなたまで続いているのが見えました。当時は、香港はまだイギリス領であり、これは正真正銘の国境であったわけです。(いまでも、深センと香港の間の通行は返還前と同様に厳しく管理されています。しかし、中国人にとっては、香港にははるかに行きやすくなったようです)

その同じ場所に次に訪れたのは、14年後の2004年でした。深センの街は、あとかたなく変わっていました。近代的なビルが立ち並び、大都会の風貌を見せています。この香港から境界を越えて中国側に入った場所、そこには国鉄深セン駅があるのですが、しかし、実に危険な空気が漂っていました。香港側から入ってきたより裕福な香港人や外国人を相手の物売りや売春の客引きがしつこく追いかけてくるのです。私もこのときは、しつこい客引きに実に300メートルほど追跡され、不愉快な思いをしました。私にとって、この深セン駅前は、危険かつ足早に立ち去るべき場所であったのです。

そのため、今回は、ふたたび羅湖で香港から深センに入るとき「やれやれ、また中国か」と憂鬱な思いがしました。深セン駅前のいやな体験の記憶があったからです。しかし、中国への入境手続きが終わり、駅前に出てみると、どうでしょう。ふたたび、そこは完全に変化して、美しいコンコースに生まれ変わっていました。どうやら、地下鉄が開通したとき、再開発されたようなのです。客引きはもうどこにも見当たらず、危険な鋭い空気は消えてなくなっていました。人々の表情も心なしか緩やかになっていました。しゃれた洋服に身をつつんだ若い母親が、制服を着た小学生の女の子の手を引いて、優雅に歩いていきます。これがあの中国人なのか、と目を疑いました。地下鉄にも乗ってみましたが、さすがに新しいだけあって、東京のたいていの地下鉄より乗り心地もよかったです。乗客たちの服装も4年前にくらべてずっとおしゃれになりました。中国人たちが、確実に豊かになっているのを実感しました。

深センは、そもそも香港からの投資を引き込むために作られた経済特区でした。それが、いまや香港をしのぐ勢いとなり、むしろ香港経済のほうが深セン経済に吸い寄せられているような印象があります。香港では、以前に比べるとずっと普通話(北京語)が通じるようになりました。地下鉄は、広東語・英語・普通話の3言語でアナウンスされます。以前は紙くず同然の扱いをされていた人民元は、いまや普通にコンビニで使えるようになっています。今回、香港を歩いても、街のいたるところから、普通話が聞こえてきました。中国からの観光客やビジネスマンたちでしょう。そのうち香港は、中国からの観光収入で生計を立てるような地域になってしまうのかもしれません。

その傾向がさらに強いのは、マカオでしょう。マカオは、もともと観光(カジノ)で生計を立てていた地域ですが、近年は中国大陸からの客が急増し、発展に加速がつきました。マカオに2007年にオープンした The Venetican というホテルを訪れましたが、その付属カジノの大きさには度肝を抜かれました。空港の出発ロビーのような巨大な空間に、4000卓のバカラテーブルが置かれているのです。4000ですよ。カジノの向こう側の壁があまりに遠くにあって霞んでみえるので、目の錯覚かと思うほどでした。こうしたバカラテーブルの上では、500香港ドル札(=7500円)が乱舞しているのです。カジノのアナウンスは、主に普通語で流れていました。大陸の中国人たちの力の拡大を雄弁に語っています。

香港・マカオは、いまや完全に深センを含む広東省の経済に飲み込まれようとしています。これは、以前の力関係を考えると、なんとも感慨深いものがあります。中国は、膨張する赤色巨星のようです。周囲の経済圏を次々に飲み込みながら貪欲に成長を続けています。中華圏である、香港・マカオが飲み込まれていくのは、ある意味当然でしょう。次はおそらく台湾でしょう。その後、隣接する韓国やベトナムの経済が、中国経済に大きく依存した形をとる可能性があると思います。

日本は、こうした東アジア経済の巨大な地殻変動に無関係であるとは思えません。いまでも、日本への中国人観光客が激増していると聞きます。友人の話では、東京の百貨店は、中国からの買い物ツアーの客でにぎわっているそうです。福岡や広島といった中国に近い都市においても、中国からの旅行客が増えているそうです。観光地では、中国人旅行客を相手にするために中国語を学ぶ人たちが増えることでしょう。

世界経済の変化に対応できない日本企業を買収して、日本に進出してくる中国企業も増えてくるでしょう。「外資系企業としての中国企業」です。20年後には、多くの日本人が、中国人の上司の下で働くことになるかもしれません。米ドルの地位に追いつくかは微妙ですが、人民元はハードカレンシーとして台頭し、日本のどの銀行でも普通に両替できるようになっているでしょう。

昨日、成田空港からのリムジンバスで、夜の東京都心を通過しました。雨上がりのせいかもしれませんが、妙にさびしく感じました。中国におけるこの20年の巨大な変化にくらべると、日本はまるで眠りこけていたように見えます。これでは、外国人投資家たちが、ジャパン・パッシング(Japan passing)を起こすのも当然です。月のすぐ隣にある星が月の明るさに圧倒されるように、溶鉱炉の炎のような明るさで輝く中国のすぐ隣でくすぶっている日本は、遠くからみるとまったく目立たない存在に成り下がっているように思えます。

ここには、大きな歴史的な力が働いているように思えます。個人はおろか、国家の権力をもってさえ、この大きな潮流を反転させるのは、むずかしいように感じました。ゆるやかに縮んでゆく日本。残念ながら、これが向こう20年の基本的なトレンドであるように思えます。この流れを誰も止めることはできないとしたら、それを前提に、後は個人のレベルでなんとかうまく立ち回るしかないのでしょう。私は、この流れのなかで、いかに自分と自分の家族を守るか。これから具体的に考えていくつもりです。