言語・文化・民族

昨日のエントリ、水村美苗「日本語が亡びるとき」は意外な反響を呼んだ。梅田望夫氏のエントリにトラックバックを送ったのは大きかったか。ブクマやコメントでいろんなメッセージを頂いたが、やはりピントがずれたものが多くて笑えた。そもそも昨日のエントリは水村美苗の新作の書評ではない。書評なんて書きようがない・・・まだ読んでいないのだから。昨日のエントリは、私が現実にいままで生きてきて、頭のてっぺんではなく、腹の底で感じたことを文字にしたまでのことだ。カナダのモントリオールでは、完璧な英語をいやいや話すフランス系の若者たちがいた。カナダのトロントには、子供が英語しか話せず、親子の意思相通ができなくなってしまった韓国系の移民がいた。こうした言語をめぐる現場に立ち会ったことのない人に私の気持ちをを説明するのは難しい。

世界のたいていの人たちは、言語・文化・民族の相互関係については、日本人よりは多少まともな認識を持っている。日本人がここまで素朴な認識しかもてないのは、日本が世界にもまれに見る言語・文化・民族の境界線がピッタリ国境と重なる国だからだ。そして、小飼弾が言うとおり、日本の経済が豊かであったからだ。日本語が生まれたときにそこにあったし、それが無条件に未来にそのまま存続していくと信じられるのは、こうした幸運に恵まれていたからだ。

水村美苗日本語が亡びるとき」は読んでいないが、この補足説明によれば、水村氏の主な主張は、「日本語が普遍語としての地位を失い、現地語に堕ちる」ということなのだろう。イメージ的には、インド・ムンバイの知識人にとってのマラティ語、福建省に住む中国人にとっての福建語のような地位に、日本語が落ちていくということだろう。つまり、日本語が経済・政治・科学・文芸のすべての局面で使われるのではなく、より私的な要素の強い場面(家族や友人との会話、芸能ニュース、バラエティ番組等)にのみ使われる言語になっていくだろう、という予測だろう。生活語としての日本語は、向こう数世紀は使われ続けるかもしれない。しかし、普遍語としての地位からの脱落は、言語としてのゆるやかな死のプロセスの始まりなのだ。それは、日本語において、すでに多くの地方で方言が事実上死に絶えたことを見れば想像できるだろう。

英語がいかにその普遍的な地位を築いていったかについては、次の良書がある。

English As a Global Language

David Crystal は英語のネイティブスピーカーであり、英語の普遍語化にもっとも恩恵を受ける立場でありながら、それを手放しに祝福するのではなく、記述はあくまでも中立的で好感が持てる。「英語のネイティブスピーカーは、自分の置かれている立場に関して謙虚でなければならない」と述べている。

英語が巨大なロードローラーのように弱小言語を押しつぶしている。それに伴って世界の各所から悲鳴が上がっている。私は、TOEIC で満点に近い点数を取ったあと、英語をそれ以上学習する続ける意欲を失い、韓国語・中国語・ベトナム語などの英語以外の言語を学ぶようになったのは、英語が持つ圧倒的なパワーと、それによって大きな恩恵をうけている英語のネイティブスピーカーに対する反感があったからだ。

しかし同時に、これは止めようの現象であることは痛いほどわかっている。もう人類は後戻りができない。確かに中世ヨーロッパにおけるラテン語や、近代以前の東アジアにおける漢文といった、地域的な普遍語はいつの時代にも存在した。ただ、英語は、おそらく人類にとって、最後で唯一の普遍語になるだろう。

なぜ英語が最後の普遍語なのか。ネットワークの外部性が働いているからだ。世界のすべての国際的な交流はいまや英語で行われるようになっている。世界中の人々があまりに多くの投資を英語に対して行ってしまっている。この流れが逆転することは考えにくい。いま、たとえアメリカが没落したとしても、いかに中国が台頭しようと、もう流れは変わらない。全面核戦争でも勃発して人類が滅亡の危機にでも瀕しない限り。

ただ、日本は、英語の普遍語化に最後まで抵抗する文明の一つになるだろう。(もうひとつは中国だろう)そういう意味で向こう30年くらいは日本でも英語なしで生活ができるのかもしれないが、やがては日本も歴史の大きなうねりに飲み込まれていくだろう。