寄付ベース社会への移行

ベトナムに住んでいると、モノのありがたみがよくわかる。なぜならば、この国は、まだモノが少なく、品質もよくないからだ。北部から南部までバスで縦断したのだが、道路の舗装状態の悪さには辟易させられた。こういう状況で、道路の舗装状態がよくなれば、きっと直接幸福度は上がるだろう。

だが、今日の日本に目を移してみると、社会にモノはあふれかえっている。確かに、高級品と中級品の区別はあるかもしれない。しかし、その実質的な性能はほとんど変わりがなく、違うのはブランドイメージだけである。こういう時代に、モノを売ろうというのはなんとも不自然な気がする。アメリカの自動車市場が崩壊したそうだが、これも、そもそも必要もないものを売っていた化けの皮がはがれただけであろう。

日本の国是は、どうやら「モノづくり」ということらしい。確かに、いままで不可能であったことを可能にする技術・・・たとえば、最先端の医療機器の開発だとか、新型宇宙ロケットの開発とか、効率的なエネルギーの利用方法だとか、そういうものには社会的な価値があるだろう。だが、家電や自動車に小ざかしいアレコレをつけて「付加価値」と称して高く売りつけようとするのは、いかがなものか。

しかも、そういうほとんど社会的には価値のない経済行為のために、若い父親が夜遅くまで残業し、小さい子供の顔も見られない。妻は不満を募らせ、家庭不和の元になる。いったい、日本人は何をしているのだろうか、とスーツ姿の男たちを詰め込んだ深夜の山手線に乗りながら考えたことが幾度もあった。

お金は大切である。だが、お金がもっともその力を発揮するのは、モノの売買においてのみなのではないか。情報やサービスは、そもそも「売買」というモノをメタファーにした取引に本質的になじまないのではないか。

百歩譲ってサービスは、時間を単位にして課金できなくもないかもしれない。(これが日本の SIer たちの人月ビジネスだ)だが、情報にどうやって課金できるというのだろう。そもそも情報にはまったく競合性がない。つまり、一人が使用したからといって、他の人が使用できないわけではないということはないし、情報をコピーをしてもその過程で何も失われない。これを競合性のあるモノのメタファーを使って、無理やり排他性を付けて「販売」しようとするからおかしくなる。情報にはまったく競合性も自然的な排他性もない公共財的な性質をもつのだから、自由に流通させればいいではないか。

ニコニコ動画の一部の優秀な動画を見ていると、こういう作品を作る人たちを何とか援助をしたいという気持ちが自然にわきあがってくる。であれば、その感情に素直に答えるべきではないのか。つまり、実際に、クリエーターを援助するのである。ここでは、作品はクリエータの人格から切り離されて、売買される商品になるのではない。その代わり、クリエーターの作品は公共財になるが、鑑賞者は直接クリエーターを援助するのである。日本では投げ銭と呼ばれているようだ。(投げ銭システム推進準備委員会, ただし最近は更新が止まっているところがこの手のシステムの難しさを物語っているか) ここでは、クリエーターと支援者の間にお金では測ることができない友情が生まれる可能性がある。これ自体が GDP 統計にのせることのできない、しかし人間にとって本質的に重要な豊かさである。

物質的豊かさが飽和していくにつれて、情報を生産する人たちが増えていくのは間違いない。そして、情報はますますモノのメタファーの形を取るのが難しくなり、純粋情報として取り扱われるようになっていく。そのとき、論理的に考えると、いつでもたどり着くのは、この寄付ベースの経済である。あるいは、ファンクラブ経済と呼んでもいいかもしれない。つまり、何らかの才能を持った人間が中核におり、その人を経済的に支援する人たちがその周りを取り囲んでいる。そういうサークルが無数に社会に誕生するイメージである。

もしこの方向に経済が向かうのが必然であるならば、その方向に向けてビジネスを構築しなければならない。あとで、もうちょっと具体的な方策について考えてみることにしたい。