日本の男たちよ、男らしい独立心と矜持を再び持とうではないか
香港在住の bobby さんが、最近ホットな雇用問題について、自由主義的な立場からエントリを次々に送り出している。雇用の流動化が香港を繁栄させてきたとして、次のように述べている。
香港人が転職する理由は、昇給とスキルアップの他に、もう一つ大事な理由があります。会社の自分に対する支配力をなるべく減らすという事です。現在の日本の労働者は、そういう意味で、あまりに他者に依存し過ぎています。高度成長期以前の日本は、そうではありませんでした。今の日本人は、あきらかに会社に甘えすぎています。
私は、いまの日本に対して苛立ちさえ感じているのだが、その原因の一部が上の文章によく表現されている。これは外国から帰ってくるたびに感じる苛立ちだ。
これからの後の文章は、日本の男たちに向かって書く。(女性については今日は棚に上げておく)
いまの日本では、大企業の正社員=勝ち組、中小企業の社員や非正規雇用者=負け組、のような理解に疑問をさしはさむ者がいない。そして、誰もがどうやったら企業にしがみついて職を失わないで済むか、そればかり論じている。
だが、プライドを捨ててまで一つの会社にしがみつくことが自分にとって本当にメリットがあるのか、一度でも真剣に検討したことがあるのか、疑問に感じる。そもそも、物乞いのように職を乞う姿に、人間としての威厳があるのか。大企業の中核的な社員の多くは男性だが、男としての独立心や矜持はいったいどこに行ったのか。
池田信夫氏が、19世紀には労働者はみんな「派遣」だったというエントリで主張したかったのは、部分的にはそういうことだったのかもしれない。日本人は決して遠い過去からずっと、いまのように一つの会社に人生全体を捧げるような生き方をしてきたわけではないということだ。それは、池田氏のいうように、日本古来の伝統や文化に根ざすものなのではない。
たしかに、日本の雇用流動性が高かった戦前の社会は、いまよりずっと貧しかったかもしれないが、自分の食い扶持は自分で探すしかなかった時代には、男たちの眼光はいまより鋭く、生き生きしていたはずだ。苦しいことも多かっただろうが、生きているという実感があったはずだ。(それに戦前貧しかったのは、そもそも技術水準が低かったせいで、雇用の流動性と直接の関係があるわけではない)
これは、私の感覚でしかないが、とにかく日本にはいい顔をしたオヤジが少ないのだ。外国にいると実にいい顔をしたオヤジがいる。それは自分の人生に対してきちんと責任を取って生きているからだと思う。何かに依存し甘えているわけではないからだ。
失業したら、自分で商売を始めてやろうとかいう気概がなぜないのか。屋台のラーメン屋だっていいじゃないか。道端にむしろを敷いてモノを売るのだっていい。靴磨きだっていいじゃないか。何でもやれることをすればいい。国に頼るのは一番最後だっていいじゃないか。なぜ、そう考えられないのか。雇用されるのはカネを得る唯一の方法ではないはずだ。
自分の中の野生を取りもどそうではないか。生命というのはとてつもない潜在能力を持っている。それを解放さえすれば、驚くようなことが達成できるのだ。お願いだから、大の男が、会社を一つ二つ首になった程度で、この世が終わりだなんて思わないでほしい。
こうしたバイタリティを取り戻さない限り、日本がこの先、生産性を高く保ち、自国の繁栄を維持するのは難しいだろう。
でも、こう書くと必ず反発する人がいるんだよな・・・。そういう人たちはおそらく、いまブラックな会社でしょうもない仕事を、薄給かつ長時間させられていて、それでも他の仕事を探してもなくて、現行の経済システムに極端な不信感を持っている人たちなんだろうな。で、そういう人たちは、私を指して、「こいつは現実が何もわかっていない。机上の空論乙 www」とか言うんだろうな・・・。そうね。それでも私は、自分の信念を曲げるつもりはない。ブラックな会社での仕事がどうしても好きになれないなら、やめてもいいと思う。それで飯が食えないというかもしれないけど、必死に頭を絞って考えれば、なにかそこそこ食えて、かつ自分がそれほどいやだと思わない仕事を見つけられると思うんだけどな・・・。
わかったよ。どうしてもいい仕事が見つけられない、絶対的な弱者もいるのかもしれない。それでも私は、自由な生き方が好きだ。独立心に満ち溢れた生き方を支持する。もし、自分が絶対的な弱者だと本気で信じられるのなら(私は本当にそんな人がいるのかどうか確信はないが)市民運動に参加するなり組織なりして、政府からカネを勝ち取ってほしい。それはそれでいいと思う。
まとまらないが、私が言いたいことは、「男たちよ、独立心を取り戻そうよ!」ということ。そのほうが男の生き様としてはカッコいいと私は思うんだけど。