「自己責任」という言葉への違和感
最近、経済的自由主義を批判する文脈で、「自己責任」という言葉を使う人たちをよく見かける。たとえば次のような感じ。
日本の転職しにくさは、解雇規制のせいじゃないと思う - モトログというエントリについたはてなブックマークのコメント。
tambo すでに日本の企業は人を育てることを放棄しているように思うんだけどな。なんでもかんでも自己責任=責任を取りたくない経営者ばかり。これは学校や家庭でも同じ。
このコメントに共感するはてなスターが5つ以上ついている。
私はこの文章を前に少しばかり考え込んでしまった。これって「自己責任」という語の本来の使い方だろうか?「自己責任=責任を取りたくない経営者」というのは、どういうことなのか?
それで思いついたのは次の仮説。
「自己責任」というのは、英語で言えば、"Do at your own risk" というところだろうか。つまり、自由に行動してもいいかわり、結果に対しては責任を取れよな、ということである。裏返していえば、行動が成功すればその利益を独り占めしてもかまわない。だから、欧米では「自己責任」の語感は、決して悪くない。自由でありつづけるための当然の前提という感じだ。
翻って日本では、この「自由」という部分が抜け落ちているのではないか。つまり、自由にやれないのにもかかわらず、人の失敗のツケを払わされるという語感で使っている人たちが多いのではないか?とにかく失敗した場面だけを考えて、「おれ知らないよ、お前が責任とれよな」という感じ。
私は、「自己責任」という語を、欧米風にしか理解したことがなかったので、上記の日本風の解釈がいままでよく理解できなかった。なんとも根暗な考え方だと思うが、これもいまの日本社会の一つの側面をあらわしているのかもしれない。