人に何かをしたいという気持ち

ベトナムで一番信頼を置いている友人 Nhat さんが、久しぶりにサイゴンに帰ってきた。彼は、病気のためにサイゴンから100キロくらい離れた実家で療養をしていた。

私は、彼が松葉杖の痛々しい姿で現れたのに驚いた。すっかり病気が治って帰ってきたとばかり思っていたのである。

病名を聞いた後、私は暗い気持ちになった。関節リウマチ。免疫系の異常からくる難しい病気だ。20代前半の若さで、この病気にかかってしまったということは、おそらく体質的なものも関わっているのだろう。一生付き合っていかなければならない病気である。

彼の実家は豊かではない。しかも、いまはお祖母さんが瀕死の状態で入院している。そこに Nhat さんの病気が重なってしまった。心理的にはもちろん、経済的にも相当苦しいだろう。

Nhat さんの質素な実家には、インターネット回線がない。パソコンもない。彼は、腰の関節が痛むために、ほとんど動けないで家で寝ている。せめて、インターネットがあれば、退屈しないですむだろうし、サイゴンに住む友人たちと連絡も取りやすいだろう。

私は、考えて込んでしまった。日本円にして、わずか数万円の投資で、彼の生活は劇的に向上するだろう。だが、それができない。

私が、たとえばパソコンをプレゼントすることは簡単なことだ。だが、それは本当にいいことなのか。そもそも、われわれの友情は微妙なバランスの上に成立している。日本とベトナムの経済状況の違いから、彼と私では、所得も資産も桁違いである。だが、私たちはいつも同じものを食べ、交代で支払いをしてきた。彼には、あくまでも私とは対等だという矜持がある。彼はもちろん私に物乞いなどしたことがない。そういう彼の矜持を私はいつも好ましく感じてきた。

私が、もし恵むようにして何かを彼に渡してしまったら、確実にわれわれの友情は変質していくだろう。彼は、健康でさえあれば、自分の力で道を切り開いていくことのできる立派な人物である。

私は何をすべきなのか。実は、Nhat さんのケースだけでなく、ベトナムではときどきこういうことを考えさせられる。この国では、まだ絶対的にお金が足りない。日本円ではわずかな投資で、若い人たちの人生が大きく好転するようなことが実現できる。もし、私が望むならば、私がその手助けをすることはできる。だが、本当にそうすべきなのか。

日本では、いま非正規労働者の解雇が大きな問題になっている。彼らを積極的に支援しろという人がある。その一方で、自分を選択した結果に対しては自分で責任を取るべきで、安易は支援は慎むべきだ、という人もいる。人生の不運をすべてに対して準備ができるわけではないから、そうした不運にたいして援助をすべきだというのはもっともかもしれない。だが、同時に、どんなことをしても最後は助けてくれるのだ、という印象を与えてしまえば、最初から、不運に対する備えをしなくなってしまうかもしれない。自分の身にも起こりうる不運をこうむってしまった人に同情を感じるのは、人間としてごく自然な心理だ。だが、本当の意味で、その人を立ち直らせ、成長へ導くにはどうすればいいのか、という問いに対しては、単純な解答はないのかもしれない。