ハイエクの思想
趣旨
大学時代にハイエクの著作に感銘を受けたことをよく覚えている。自分にとって、ハイエクのどこらへんがすばらしいと感じるのか再確認するため、ハイエクの思想のハイライトをまとめてみた。本当は原書を読みたいのだが、ちょっと時間がないな・・・。(それにハイエクの英語はクネクネした感じで読みづらくもある) というわけで、
wikipedia ja 「ハイエク」
wikipedia en "Hayek"
をまとめてみた。
ハイエクの思想
ハイエクの思想の根本にあるのは「人間の理性の力は極めて限定的である」という諦観である。それにもかかわらず人類は壮大な文明を築きあげてきた。彼は、この逆説はどこから来るのか、という疑問に対する答えを探し続けた。
「市場の情報や知識をすべて知ることは不可能であり、部分的な情報を熟知する参加者達が参加する市場こそがもっとも効率のよい経済運営の担い手である(wikipedia ja)」として、中央政府による計画経済を明確に否定した。The Use of Knowledge in Society(1945)のハイエクの言葉が雄弁にこの概念を伝えている。
The marvel is that in a case like that of a scarcity of one raw material, without an order being issued, without more than perhaps a handful of people knowing the cause, tens of thousands of people whose identity could not be ascertained by months of investigation, are made to use the material or its products more sparingly; that is, they move in the right direction.
驚くべきことに、一つの原料の不足しているような場合において、命令が下されることなしに、一握りの人々しかその原因を知らないのにもかかわらず、数ヶ月の調査の後にも身元を割り出すことができないような数万人の人々が、その原料またはそこから作られる製品を節約して使うように強制される。つまり、彼らはあるべき方向に動いていくのである。
経済全体を理解している人は一人もいない状況においても、価格という極めて小さなシグナルに従うことで、人々は正しい方向へ行動を調整することができる。これが市場のもっとも重要な機能であり、いまのところ人類はこれよりうまく機能する資源配分の方法を発明できていない。
しかし、ハイエクに従えば、この市場でさえ人間が意図的に設計・発明したものではない。そうではなく、人々が歴史的に長い時間を掛けて積み重ねてきた行為の集積として存在している。
ハイエクは「人間は現存の秩序をすべて破壊し、そこにまったく新しい秩序を建設できるほど賢明ではないとし、既存の秩序、つまり『自然発生的秩序』の重要性(wikipedia ja)」を説いた。そして「理性の傲慢さのもたらす危険性を常に問題視(wikipedia ja)」していた。
「理性によって合理的に社会を設計しよう」と人々が考えるとき、おそらく最初に頼りにするのは政府であろう。だが、上に述べたとおり、ハイエクは一部のエリートが社会を合理的に設計することの不可能性を確信していた。彼は、政府の役割は「法の支配」を徹底させることにあると考えた。そして経済に対する恣意的な介入を最小限にすべきだと考えた。ハイエクに従えば、政府は「自然発生的秩序」の保護者であるべきであり、それに取って代わる、合理的に設計された別個の秩序を企てるべきではない、ということだろう。
なぜハイエクの思想は理解されないのか
ハイエクの思想はわかりづらい。それはなぜかというと「人間の理性の力は極めて限定的だ」という懐疑論が根本にあるからだ。これは、人々のごく素朴な合理主義的な認識と一致しない。彼らは、社会というのは、間違いなく人間が作り上げた存在である以上、そこにいる人々が合意すれば、何事も成しえるはずだ、と考える。特に、これが人々にとっては巨大で全知全能に近く感じられる政府によって達されうるはずだ、と考える。計画経済の不可能性は、1920-30年代の経済計算論争を通じて、ミーゼスやハイエクよって理論的に論証され、1990年前後のソ連や東欧の社会主義経済の崩壊を通じて、実証された。しかし、今でも、政府に社会主義的政策を求める声は大きい。
これは、自分自身を客観的に見つめて、その限界を認めることが難しいという、人間的な弱さに基づくものだろう。たとえば、天動説が科学的な観察によって否定されて、地動説が受け入れられるまで長い時間がかかった。ヒトの絶対的優越性を否定する進化論が、受け入れられるまで大きな社会的抵抗を通過しなけれならなかった。人間一人一人のレベルでも、子供は、素朴な尊大さを持って、自分を世界の中心に位置づけている。そして、大人になる苦痛に満ちたプロセスで、自分が社会の中の平凡な一構成員にすぎないことに気づく。
しかし、不思議なことに、自分自身の限界に深く気づけば気づくほど、この社会で行使しうる現実の力は増大するのだ。科学は、人間も地球も太陽も、この宇宙の中でごく平凡な、原子の組み合わせにすぎないことを解明し、それは人類における、ある種の幼児的な尊大さを深く傷つけたが、同時に、科学技術は人類に巨大な現実の力をもたらし、人間を月に送り込むことさえできるようになった。謙虚な人間には大きな力が与えられるのだ。
ハイエクは、人類が自分自身を深く知り、大人になっていく苦い過程の一里塚なのだ。ある種の反動的な勢力が、ハイエクの思想を快く思わないのは、こうした過程を思えば当然のことかもしれない。