同じだと思う範囲を広げる

バンコクid:KoshianX さんと 31o5 さんにお会いした。この件について、お二人はそれぞれエントリを書いていらっしゃっていて、それぞれとても興味深い。(KoshianX さんのエントリ31o5 さんのエントリ)

たしか、31o5 さんだったと思うが、「『同じ』だと思う範囲を広くすると、生きるのが楽になる」という話をしていて、とても共感した。31o5 さんはバンコクに来たとき、「あーこれも、あれも日本と同じ」というふうに、日本とタイで共通する部分を見つけるのが楽しかったという。その一方で、一般的に日本人は、差異を見つけるのがとても得意じゃないか、という話をした。KoshianX さんの言うとおり、日本人のこの性質は、画一的な製品を作る、ある種の製造業にとても有利に働いたと思う。しかし、その一方で、日本人が集団の内側で内向きになると、少しでも異質な人を糾弾して排除する方向に向かってしまいがちだ。31o5 さんの言うとおり、人間は一人一人、ほっておけば自然に異なる存在なのに、それがそのまま自然に許されないというのはしんどいことである。

海外ニートさんの話じゃないけど、日本人は自分で自分の首を絞めているというか、わざと住みにくい社会を作っているような気がする。建前はともかく、本音では異質な存在を集団の中に入れたくない。3回以上転職していたり、履歴書に1ヶ月でも「ブランク」があるだけで、胡散臭い目で見られる。わずかな違いも見つけて追及する。サービスを購入するとき、わずかな欠陥も許さない。電車が30秒遅れただけで、車掌がお詫びのアナウンスを入れる。自分にも他人にも厳しい社会、それが日本。

そんな自他共に厳しい日本人が信仰してきたのが、工業製品の品質へのこだわりだったのかもしれない。1ミクロンの誤差も許さない。納期は絶対厳守。そうやって製品の品質を高めれば高めるほど、製品は売れるようになり、利益も多くなるはずだ。そう信じて日本人たちは歯を食いしばっていままでやってきた。

ところが現実はどうだろうか。多くの工業製品がすでに十分以上の品質を備えるようになってしまった。日本製品は確かに品質が高い。だが、多くのケースでそこまでの品質は必要がなくなってしまった。韓国や中国の似たような、しかし価格は半分以下の製品で十分に消費者を満足させることができるようになってしまった。

日本人は認めなくてはいけない。もういままでのように、自分の骨身を削るような思いをして、製品の品質を向上させても報われるような時代が終わってしまったということを。単純な品質第一ではなく、もっと総合的な企画力が利益を生む時代だ。アップルがハードウェアをダシにして、iTunes や AppStore で大儲けしているのを見てみよう。そのためには、もう少し心を開かなければならない。新しいやり方、異質な物事、リスクを取ることを評価しなければならない。

1ミクロンの精度を上げるために、あくせくするのはもうやめよう。休暇を取って、のんびりした国に旅行に出かけよう。そして、少し物事から距離をとって、リラックスしてもう一度眺めてみれば、新しい視野が開けるのではないか。遊び心が重要だ。それが、日本が再び発展途上国に逆戻りすることなく、先進国として生きていくための唯一の方法であるように思える。