日本的経営の未来

先日、ある日本の中小企業の社長さんが書き下した「創業の精神」「事業理念」に関する文書を読んだ。その企業ではそれをバイブルと呼び、事業展開するときの基本的方針にしようとしている。いわば会社の憲法である。

その中で社長さんはなかなか面白いことを言っている。会社のステークホルダーのうち重要なのは次の順番だという。

(1)従業員 (2)外注・下請 (3) 顧客 (4) 地域社会 (5) 株主

である、と。顧客第一、と普通日本の会社は口にするが、この会社はもっと正直にいちばん大切なのは、社員だと断言している。

また会社にとって一番大切なのは、存続することである、という。「成長も、利益を出すのも、すべては末永く会社を存続させるためである。なぜなら、会社は社員の生活を預かる運命共同体だからだ」という。

何かに似ていると思ったのだが、考えてみると、これはまさに「拡大された家族」ではないか。江戸時代の商家の旦那さんが言っていたとしても、何も違和感がない感じである。

日本の場合、中小企業だけではなく、大企業もまた、こうした「拡大家族としての会社」を理念型として運営されているのではないか。その精神的源流は、江戸時代の藩や商家にあるのかもしれない。もっとも重要なのは、構成員であり、かつ、お家の存続である。

教科書的な理解では、近代的な資本主義では、株式会社にとって重要なステークホルダーを列挙すれば、普通次の順番であろう。

(1)株主 (2)顧客 (3)従業員 (4)外注・下請 (5) 地域社会

株式会社の目的は資本を増大させることにあるのだから、株主がもっとも重要なステークホルダーになるのは当然だ。次は売上をもたらしてくれる顧客。従業員や外注・下請は、単なる労働という生産要素で、コスト要因にすぎないのだから、重要性はない、という風に。

アメリカでは、この教科書的な理解に近い形で経済が運営されているようだ。アメリカでは、労働力を機能としてみる。工場のパイプや事務所のパソコンと同様、生産を行うための一要素にすぎない、と。そこには、従業員を家族の一員として温情的に取り扱う心情はない。経営環境の変化に伴って、情け容赦なく配置転換やレイオフが行われる。経営側は、従業員を将棋の駒のように取り扱えるために、自分の裁量を大きく生かすことができる。しかし、駒のように扱われた従業員たちは多くの場合、仕事に喜びを見出すことに困難を覚える。その代わり、日本の場合のように、会社へ忠誠を強制されることもないし、サービス残業を強要されることもない。従業員と会社の関係はあくまでも冷たいビジネスライクな関係である。

日本的なやりかたもアメリカ的なやり方も本来は優劣はないのだろう。どちらのやり方でも利益を出してステークホルダーを満足させれれば、会社は社会的機能を果たしたことになる。ただ、アメリカ風のやり方のよい点は、思想信条が異なる人たちに協力して働いてもらうにはよいシステムだ、ということだ。
日本の会社は、従業員が「家族」であることが前提であるため、どうしても高いレベルでの思想的均質性を要求しやすい。この方法は、外国人を含む複雑なバックグラウンドを背負った専門家たちの力を糾合して、問題解決に当たらなければならない場面で、行き詰まってしまうことも多い。

しかし、日本人にはアメリカ的なドライな組織運営は難しいと思うし、そのやり方が唯一の方法でもないはずだ。なので、こういうのはどうだろうか。名づけて、「友達家族経営」。企業=家族であるのはいい。ただ、この従業員たちには、一定の考え方を押し付けないこと。家族としての温かみ・一体感は維持しつつも、従業員相互の人生設計や価値観を尊重し、プライバシーに踏み込まないこと。友達同士の家族のような会社。これならば、バックグラウンドの異なる人たちを受け入れやすいのではないだろうか。