日本にこだわる理由

確かに最近、ニホン、ニホンと何かにとりつかれたように、日本関係の(ネガティブな)情報を集めているのは認める。ときどき、ネットで、「日本に何でそんなにこだわる必要があるの?」と言われるが、そういう人はおそらく日本の外に住んだことがない。日本人ばかりの日本を一歩外に出れば、そこは、異質な人たちの群れの中で、あなたが日本人の代表として取り扱われる世界だ。顔立ちも、立ち振る舞いも、パスポートにも、すべて日本人の刻印が押されている。

「いまはフラットした社会でありまして、もう国境など意味を持たず・・・」とか理屈で講釈を垂れているインテリがいるが、まだまだ世界は強い民族意識のなかで動いている。むしろ世界が狭くなったことで、あらゆる民族が実質、肩寄せ暮らしあう「世界のバルカン半島化現象」とでも言える状態かもしれない。

私は、29歳まで日本にずっと住んでいた。大学教育まで日本で受けた。私は、英語圏の文化はそれなりに理解しているつもりだし、親しみも感じてはいるが、100%受け入れることはできない。カナダで移民として4年間暮らしたとき、彼我の文化の根本的な違いに、絶望的な思いを抱いた。とにかく何かが決定的に根底から違うのである。こればかりは、英語圏の文化に浸かりきって、英語で生活してみないとわからないだろう。結局のところ、私は日本人なのだ。

仮に、私がアメリカで暮らしてそこで子供をもうけたとしよう。その子供は、アメリカ文化を空気のように吸って育つ。もちろん父親が日本人だから、日本文化の影響も受けるだろう。だが、アメリカ文化の影響は圧倒的であり、その子は文化的にアメリカ人になる。靴を履いたまま、平気でソファに横たわるような人間になるのだ。子供は、日本にこだわる父親を怪訝な目で見ることになるだろう。なぜいまアメリカに住んでいて、日本を離れて長い時間が経つのに、この父親は日本へのこだわりを捨てられないのか。故郷を離れたことのない子供には、父親の気持ちは理解できない。

結局のところ、私の感傷にすぎないのであるけれどもね。仮に、英語が圧倒的な力をもつことになり、100年後、日本の公用語が事実上英語になってしまっても、悲しむのは古い世代の人間であり、そういう時代に生まれた人間は、それをごく自然のこととして受け入れるだろう。

でも私は違う。私は日本に生まれて日本語で育った。そのルーツは捨て去ることはできない。やがて私の死とともに、人類は古い記憶を一つ捨て去ることになるだろうが。

こういう自分自身の民族的アイデンティティをめぐる疑問は、異民族と日常的に触れ合わない限り発生しないものなのかもしれないけどね。日本のきわめて同質的な環境で生きている日本人たちが、きわめて無邪気に「日本なんていう枠組みはもう要らない」とか頭のてっぺんで考えて言ってしまうのは、頭をハンマーで殴られるような、異文化との接触から生まれる強いカルチャーショックを受けたことがないからだろう。

そういう「幸福な時代」はまもなく終わろうとしているのだが。