日本との付き合い方

正直言って、私は日本があまり好きではないのかもしれない、と思うときがある。

まず、海外に来て、日本料理を食べたいとあまり思ったことがない。日本を離れて2ヶ月になるが、その間、日本料理を食べたのはたった2回だ。しかも、2回とも外国人との付き合いで、日本食レストランに行っただけで、さしてうまいとも思わなかった。どの国に行っても、その土地のうまいものを見つけると、飽きもせずそれを食べ続けるほうだ。いまはベトナム料理にとても満足していて、毎日食べ続けている。(だから、日本にいれば日本食を食べる。納豆や味噌ピーナツはうまいと思う)

さらに、日本人に会いたいともあまり思わない。この2ヶ月間、日本人とまともに話したのは、ソウルで1回、中国で1回、ベトナムで1回だけだ。いまサイゴンで日本人の友人はまだいないが、ベトナム人たちが熱心に遊びに誘ってくれるので、たいして寂しくもない。ベトナムは英語がよく通じる。英語を話せば、いろんなベトナム人と会話できるし、冗談好きな欧米人旅行客と談笑することもできる。ベトナム人や欧米人は、日本人と違って人見知りをあまりせず、すぐに打ち解けて世間話ができるから面白い。

今週何回か、ベトナムの日系 IT 企業を調査するために、JETRO(独立行政法人日本貿易振興機構ホーチミンオフィスのライブラリを訪れた。あるとき、スーツ姿の謹直な印象の日本人ビジネスマンの2人組が現れた。私は、そのうち一人に恐る恐る声をかけてみた。向こうはあからさまに「こいつ誰?なんで俺に話しかけてるの?」という顔をした。やれやれ。

というわけで、私はいまやすっかり日本人恐怖症になってしまった。

思うに日本人(特に大企業の駐在員のような人たち)は自分の会社への帰属意識が高く、社外の人間というだけで警戒心を持つ。相手がどの集団にも属していないとそれだけでもう相手にしてくれない。相手の人間性を見ずに、所属集団を見ているのである。

アメリカの金融の現場で活躍されているぐっちーさんも最近こんなことを書いていた。

やっとの思いで、そういった私が満足できるプロ中のプロ数名からコミットメント(日本でお金を集めてもよろしい)というLOIを頂き日本で活動を始めましたが、今度はこういう本物が売れないのが日本という所。これはこれで大変な苦労の連続でした。

日本の金融機関は、まず、どんなに優秀なファンドマネージャーの商品であっても大手金融機関の商品じゃあない、ということで門前払い。逆にモルガンスタンレーやゴールドマンサックスアセットマネージメントのものであればOK、となる。

ラリー・ポストという、アメリカ金融界の王貞治ともいえるキングが運用しているファンドを却下して、大学出て2年目のやつがちんたら運用している大手投資顧問会社のファンドを買っているというあほらしさ。

これにはそれなりの合理性がある。日本では集団が強く所属メンバーを規制しているので、集団の内部にいる個人とつながりを持つより、その集団自体と関係を持つほうがいい。そもそも集団は個人よりずっと持続性がある。商談で「トヨタさん」「新日鉄さん」のように会社名をさん付けで呼ぶことがあるが、まさに日本では会社は、単なる法人以上の意味があり、人格をもつ存在なのだ。

日本ではビジネスは基本的に会社と会社の関係として展開される。会社の内部事情は隠蔽され、意思統一されたひとつの窓口だけを持つ。社内には実際にはいろんな意見があったとしても、それは見事に内部で調整され、外にはひとつの顔として現れる。こうして安定した会社間の関係が実現する。

日本企業にとっては、会社間の関係がもたらす長期的な安定性の居心地が良すぎて、とても個人なんて信用する気になれないのだろう。個人は気も変わるし、病気もするし、仕事もやめるからだ。

もちろんいいことばかりではない。こういう組織は、所属メンバーにとってはかなりストレスが多い。自分の自由な行動や意見は許されず、絶えず同僚と情報交換をして、統一された外向きの顔をつくらなければならない。ある同僚が昨日、顧客からある注文を受けた。しかし、その同僚が今日は休みだ。すると自分が同僚に代わって今日、客からの注文を処理しなければならないかもしれない。同僚の犯したミスも、会社として行った行為である以上、自分があやまらなければならない。自分はこれだけしていればいい、という責任分担が難しい。

さて、日本以外の国ではどうだろうか。

私が以前住んでいたカナダでのことである。

私は、カナダ人経営の小さなソフトウェア開発会社で働いていた。一時期、その顧客の会社に常駐してソフトウェアを開発していたことがある。その顧客と話をしていたときのこと。私がその顧客の会社の設備を借りて FAX を送ろうとしたときのこと。親しくなっていた顧客会社の社員の一人が私にこう言った。

「むこうの受取人の名前は表紙にちゃんと書いたよね?」
「相手の部署名しか書いてませんけど・・・小さなオフィスだし担当者に届くでしょ?」と私は答えた。
「なに言ってるの?カナダじゃ、受取人の名前が書いてなかったら、野ざらしにされて捨てられるだけよ」と彼女は当然だろうという顔をして言った。

これにはひどく驚いた。日本だったら、担当者の名前を書かなくても、FAX を回覧して、受取人を探そうと努力するだろう。送り先のオフィスは5人もスタッフがいないのである。そんな小さな職場でも FAX が届かないのか。

また別の話。カナダの銀行とトラブルになったことがある。クレジットカードの代金の払い込みに関して、行き違いがあった。私は銀行のコールセンターに電話をかけて、散々文句を言った。すると受話器の向こう職員は、最後には逆切れしてこう言い放った。「その処理は私がやったんじゃないんだから、知らないよ。その担当者と直接話をしてくれ」銀行をはじめ、電話会社など大組織はみなそんな調子だった。だから、カナダにいるときは、手続きをした後、担当者の名前を必ず聞くようにしていた。そしてトラブルがあれば、直接その担当者に連絡するのである。そうしないと話がまるで通じなかった。

カナダは、日本とはまるで仕事のやり方は違う。それでもみな、夕方6時には退社して思い思いに余暇を楽しみつつ、大きな家が買えるほどお金が稼げるのだから、それほど能率の悪い仕事の方法でもないのだろう。

まあ、ここまではいい。

問題は、世界のたいていの国で、仕事の進め方は、日本よりもカナダのほうに近いということだ。

アメリカはもちろんのこと、ヨーロッパ、インド、中国、韓国、ベトナム・・・。カナダとまったく同じではないが、日本よりはずっとカナダに近い。思えばあたりまえのことだ。集団が個人を強く規制して、外向きにひとつの顔として振舞わせるのは難しい。日本文化なくしてはそれはほとんど無理といっていい。仕事において、会社と会社の関係は一つの前提としても、実際には担当者を特定しないと話が進まない。そこには、顔の見える個人と個人の間のネットワークがある。そして、この個人のネットワークは、誰かが会社を辞めたとしても続いていく。

安易な日本特殊論を唱えたくないが、少なくとも仕事の進め方に関しては、日本はやはり世界で非常に特異であるとしかいいようがない。

ここまでは実は自分の言いたいことの前置きに過ぎない。文章が長くなりすぎたので、とりあえず今日はこれでやめにする。