ベトナム語の親族名称の謎

ベトナム人は、家族関係をとても大切にする。そのため、親族名称が発達している。彼らにとって、父方か母方の親戚の区別は重要らしい。そのため父方には nội(漢字で「内]) 、母方には ngoại(漢字で「外」) をつけて区別する。たとえば、父方の祖父は ông nội, 母方の祖母は bà ngoại という風である。

平安時代の歴史を学ぶと、「藤原氏は、天皇の外祖父として権勢を誇った」なんていう記述が出てくるけど、この「内」「外」である。日本人は、ほとんど意識しないが、ベトナムでは厳格な区別が存在する。いま滞在しているホテルの受付の男の子が、"ông nội" (父方の祖父)を英語でなんと言うのかと聞くので、"grandfather" と答えると、今度は "ông ngoại" (母方の祖父) は英語でなんだと真顔で聞いてきた。彼らの頭の中ではそれくらい別々のことなのである。

父方と母方ではおじ・おばの呼び方もぜんぜん違う。

  • 父の兄: bác trai
  • 父の弟: chú
  • 父の姉: bác gái
  • 父の妹: cô
  • 母の兄弟: cậu
  • 母の姉妹: dì

という具合である。・・・とここまでは実は前フリである(長すぎるって)。本題はここから。

ベトナム語で孫を cháu と呼ぶ。では、おいは?実はこれも cháu なのである。めいは?これも cháu。おそろしいことに、ベトナム語では「孫」「おい」「めい」の区別がないのだ!!!

「おい」「めい」の区別がないのはわかるにしても、「孫」まで一緒にしてしまうのはどうしたものか。おじ・おばの区別に燃やした偏執狂的な情熱はどこにいったのか、と思わずベトナム語に突っ込みをいれたくなる。このため日本語を勉強している若いベトナム人がときどき「私には孫がいます」とかいって驚かされる。本人は、「おい(めい)がいます」と言いたいだけなのだ。「孫」「おい」「めい」の区別がないので、とりあえず cháu = 孫、と覚えていたのだろう。

自然言語は、ある概念の取り扱いに関して、時に「どうしてそんな区別にこだわるの?」というほど厳格で、ときに「それくらい区別しろよな」というほどいい加減である。それはベトナム語だけでなく、日本語・英語をはじめとしたすべての言語でそうだ。(エスペラントのような人工言語では違うかもしれないが)この揺らぎが個々の言語の個性を決定する。でたらめなようでいて、実はこうした揺らぎを持つのが自然なのかもしれない、と最近では思い始めている。とくに根拠はなく、感覚的なものだけど。都市において土地が完全に効率的に利用されることがないように、染色体の中には大量の使われない遺伝子が含まれているように、自然に生成された秩序というのは、一定の不合理・無駄を含んでいる。だが、その無駄が実は進化の契機になるのかもしれない。